誰担ですか、と聞かれたら、踊る嵐担です、と答えようかと思っていましたが、どうやら私は「疲れてる人担」のようでした。
(どっちもよくわかりません。)

人って疲れてたり、あまりよくない状況の中にいたりする時、機嫌が悪くなったりいらいらしたりするものだと思うのですが、あの世界で働いている少年達はわりと、逆境の中でも前傾姿勢を保っていられる特性が共通点としてあるんじゃないか。
だから疲れてる人担。
その時、疲れてる人が見せる、物事に対する無心の前傾姿勢がすき。たぶん。

かように疲れてる人担な私は、その昔評判の悪かった夏のコンサートツアー中(どう考えてもこれが一番わかりやすい表現なのでこんなんで失礼;)、体力的にも、メンタル的にも、ダブルでとっても疲れていた松本くんがかなり好きでした。

…と言い切ってしまうとかなり人格的に危険なヒト(私が。)

それでもそこに立っていられる強さ、みたいなものを、自分が欲しいと思っているから、か。
つまりはそういう強さに憧憬があるから、そういう強さが垣間見える「疲れてる人」がすき。
たぶん。

あの夏、疲れてる松本潤はソロで(メドレーだったのですが)堂本(つ)の「ひとりじゃない」を歌ってて、その時の衣装が(前からの流れで)白シャツだったのね。白シャツで、「ひとりじゃない」って歌いながら、はてしなく疲れてて、でも強くて、とにかくそこに立っていることで自分の中の何かを支えているように見えました。
私の位置からは。

この夏、ソロでぽつんとバックステージに出てきた松本潤は、上が白シャツ…ではなかったのですが白衣装を着てて、ずっと長かった髪を少しだけ切って耳が見えていて、その姿がちょっとだけあの夏を思い出させるような感じでした。
それは、私の超個人的で勝手な感傷として。

そういう姿で、ただふらっとステージに出てきて
5年がたってひとりじゃないんだ、と。
そんなふうに唄う。それは。

この5年は楽しいばっかりじゃなかったと言う。

今でこそ嵐は仲良しが高じた軽い変態グループだけど(ジャニーズのグループなんかそんなんばっかりだ…)、たぶん、たしかに、この5年は楽しいばっかりじゃなかった。

松本潤はいつも常に上を見すぎる。
凝り性だし、神経質だし、納得しないと動かない(と、思われる。)

それが最初のうちは豪快に空回っているように見受けられた。例えていえば、箱根までどうやって行くかの相談をしてる時に、ひとりラスベガスまでの旅費を計算しているような。
たぶん周囲に引かれていたし、自分で壁をつくるのは得意科目だったし。

上を見る前に自分が立っている場所をみろ。まずはそっからだろ?
近くにいたら、そう言いたかったかもしれない。

(でも、だからこそ、上を見続けていてほしい、とも)

Jr.の中にも、その外にも、そうめちゃくちゃたくさん友達がいたとは思えない彼が、自分が一番上の立場じゃないグループの中でそんなにうまくやっていけるはずがない。
そういう妙な確信があった。私には。
通常的にうまくはやっていけないけど、嵐はダンスグループとしてコンサートなんかはうまくやっていけるだろう。
そういう見通しも、私の中には。

しかし。

5年がたってひとりじゃないんだと唄う。
ひとりじゃないと歌いながら隣を見ずにただ上ばかり見ていた彼が、5年がたってひとりじゃないんだと唄う。
見えているのはただ上ばかりではなく、たぶん、5年後にまわりにいる人の姿も。
そういう意味で、たしかに、今、彼の足は地についている。そう、思える。

でもやっぱり、地についたその足で視線は上を見上げている。
上は見続けている、そういう姿勢がすきだと思う。

たぶん、強くなる理由はそのために。

上を見続けること。地に足がついていること。
あなたがそこにいるということ。
文字通り、ひとりじゃない、ということ。
それが、今この手の中にあるということ。
それを、大事にしようと、思っていること。

強くなる理由は、そのために、たぶん。
松本潤の即物的なところがすきです(え。)

A・RA・SHIって曲はなんだかんだ言って好きなんだって言う。
理由のひとつは「だって売れたしね!」

…そうだね!と返す以外にないサワヤカさ。
それを公共の電波(ラジオだ)使ってけろっと口にする、それが即物的なカンジがするわけだ。
決してやたら物にこだわる部分を指しているのではない(笑)(笑ってる時点でだめだ!)


彼らの仕事に関する数字については、気にしてもしょうがないと思っている部分がある。
だって直接は係われないし、直接どうこう手を出すこともできないし。

たぶん自己肯定感が人より少ない私は、よく「所詮」とおもう。
自分のこともそのほかのことも、所詮この程度だ、と、常々おもう。
この金をこの人に落としたからってどうなるんだ、とか。
所詮、所詮。

でも、これ1枚買ったら松本潤の「売れたしね!」的ヨロコビへの投資ってことにはできるかも。
そういうふうには、ちょっと、思える。

(そのまえに自分のために買うのが筋だ。)
(否、実際はそんなこと考えるヒマもなくさっさと買っている。)


所詮、の空気は、だからなんだっていうんだ!の空気に似ている。
このCD買ったからなんだっていうんだ!
金落としてどうなるっていうんだ!
すきだからなんだっていうんだ!

机上の空論だいすきな私は、なにかすることに対して意味がほしいとおもっている。
ただ、なかなか、意味ってむずかしい。

松本潤の即物的なとこがすきだ。
それは、その意味をみつけやすいことが理由としてあるのかもしれない。
少なくともこれに金を費やすことは、彼の人生への投資にはなる。
そう考えることは、私にある種の意味をもたらす。
それが机上の空論だとしても。

意味なんかないかもなぁと思う所詮の心根をぶっとばされるかのような松本潤の即物感がすきだ。
なんでもいいから買ってくれ。なんでもいいから来てくれ。
考えてるヒマがあったら、CD買え。考えてるヒマがあったら、会場に来い。

そこに空論が入り込む余地はない。
つまり、生きるとは目の前にある生活に正面から向かい合うことなのかとおもう。
できれば、なるべく、それに対して、誠実に。

いろいろ教えてもらってる。
私はこのひとのことを直接なんにも知らないけれど。
いろいろ、教えてもらってると、おもってる。


おたんじょうびおめでとう。
私はこのひとのことを直接知らないけれど。
いつも、いろいろ、ありがとう。こころから。
感謝してます。ほんとうに。

雨アラレ、くらい、いっぱい。

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