相葉雅紀に言わせると、二宮のオトナ度数は「3%」だそうな。




つまりコドモ、と。
はい。賛成。意義なし。……まてまて。


二宮は涙腺が緩い、というか、涙腺がよくわかんないタイミングで決壊する時があるのはコドモだと思う。

でも、嵐ってわりと皆よく泣いている(ような気がする。)当初、コンサートのたんびに誰かしら泣いてたし。

翔ちゃんは最初のコンサートの挨拶でうるっとしてたし。
潤ちゃん(誰)は夏に初めて誕生日を祝ってもらったコンサートの最後の挨拶で一瞬言葉に詰まった(多分本人にそれを突っ込めば真顔で「泣いてない」と返されるであろうが。が。)
相葉ちゃんは誕生日当日にぶちあたったクリスマスの名古屋でぼろぼろに泣いている。
智ちゃん(だから誰)は舞台の楽日ごとに泣いている(笑)
泣けるくらいの情熱があるのは、悪いことではないはずだ。

夏のコンサートの、埼玉アリーナ1日目、ソロの『夢』でにのみー(誰)は突如号泣した。
見てるほうの感想を一言でいうと「なに!?」だ。
え、なに、どーしたの、なにがどーしてどーなったの、なにがあったの!?と。

レポを引っ張り出してみると、当人はその日『最後の挨拶の時に「歌ってる時に泣いちゃって」「てゆーかほとんど歌ってないんですけど」(爆)、「最近よく泣く」「USOの最終回でも家帰ってきて泣いたし」「だからよくあることなんで気にしないで」みたいなことをゆっていた。』
しかし、いざ振り返ってみると、ここで正しいツッコミとしては「気にするわ!」みたいな(笑)

なんかこう…、ほんとに、涙腺が「決壊した」という感じがして。別に深い理由とかなくて、きっかけもそんな大きなものじゃなくて、なんかふとした拍子に突如涙腺が決壊してえらいことになってしまった、とか。

そーゆー、「大きな理由のなさ」とか、一度決壊すると容易に止まんないとことか、最後にはなんで泣いてんだか自分でも謎なんじゃないかーって感じ、とか。

そーゆーところは、コドモ97%かもしれない。


97%コドモだから(?)夜更しをして、時々、寝ないで人のバースデーソング作成に精を出したりもする。
……この夏(も)、精を出していた。

金も生活もからんでこないバースデーソングという代物に対して、睡眠時間削ってやりきってしまう二宮くんはやっぱりコドモなのであろうか、と。
忙しいから、って理由で後回しにしてしまうのは簡単で、忙しいから、って、辞めてしまうのも簡単。
(だってこれにはビジネスはからんでこない。)
(やろうがやるまいが二宮の勝手だ。)

でも、やる。やっちゃう。
やらない、なんて、誰も思ってないし。
そーゆームキになるような感じがやっぱりコドモ97%なのであろうか、と。




でも。

それだったら、
コドモがいいよね。

とか。




オトナ度数が3%だとして。コドモ度数が97%だとして。
でも天才の度数は100%だと思っている。
……全部足したら200%だぞ?ということに気がついてはいけない。


昔から二宮には舞台の仕事をしてほしいと漠然とユメを見ていた。
それは嵐になってからも。十代のうちに1本、なんかやらないかな、と。

そしてやってきた舞台の話、それはハタチでニナガワだった。
ちょっとこれは夢見た未来を越えている。

舞台の上は廃墟とヒマワリ。
「枯れたヒマワリ」と表現されてたけど、見たまんまは「黒いヒマワリ」
そういう、ちょっとおどろおどろしげなものの中に立っていてもちゃんと似合ってるのがエライ。いや、これはニナガワがエライのか。いやいや、あんなぽわわわわん、とした容姿の人がいっぱいの黒いヒマワリの真ん中に立って、しかもどっかドライな感じなのさ。

ドライで、冷静で、普通。ニュートラル。
世界のニナガワだからがんばんなきゃ、っていうのは違うでしょ、って。
またそのニュートラルさ加減は一体なんなんだ、と。俗に言うオトナだったら突っ込むかもね。

思うにオトナはコドモにコドモの役割を求める。
二宮が時折おっそろしく突き放したコメントをしたり、痛いところを真顔でついてきたりするのは多分そーいうものを無意識に(か、意識的にか)避けている部分があるのではないかーと思っている。

俺はあんたの思うようなコドモじゃねんだぞ、と。
いちいちあんたの思う通りにはなんねーよ、と。
そういうふうに押し付けてくる方が間違ってんじゃねーの、と。

「どうしてこっちの思う通りになってくれないんだ!」という怒り方は、確実に間違っている。
二宮のどっかドライな立ち姿は、そういうことを思わせる。

あんたの思う通りにするために、俺が生きてるわけじゃない。

それを称して小生意気とかコドモっぽいと言うのは簡単で単純でわかりやすい。どうしようもない、と切り捨ててしまえば「自分」は安全だ。

でも、きっとそんな簡単で単純なもんじゃない。よな。

いつも何かと闘っている風味な二宮はきっと、「こっちの思う通りにやってくれた」結果の高評価には興味ないのかもしれない。「こっちの思う通りに振舞う自分」は好きじゃなくて、そういうことを潔しとしないからこそ「(自分が自分のためにいるから)自分が好き」と言えるのか。
だから役者が好きなのか。求められている「役」は、決して自分自身ではないから。

人は役割に固執するものだと思うので。「こども」には「こども」」の役割があり、「親」には「親」の役割があり、「ともだち」には「ともだち」の役割があり、その役割を実生活できちんと演じていなければ、あまり評価を得られないものだと思うので。
その役割に固執せず、そこから発生する評価はいらないとばかりに、

あんたの思うようにはならねぇよ

と。

そう、あっさりかわすことのできるこの人は、そういう意味でも天才だと思っている。(まじ。)





17歳おめでとう(そうじゃないぞ)
まだ17歳だってできるぜ!な21歳は貴重だ。

21歳のこの1年、彼の上にたくさんの日々の幸せと平穏を。

おたんじょうび おめでとう。
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