This is a Little Song, a Tiny Song この手高く高く今舞い上がる
 友を信じる優しい声が 遠く遠く君の元へ届きますよう




 小さい頃、意味もなく電柱さわりながら帰ってたって言うの。

 これ、昔、自分もやってた。昔ね、昔、小学生とか中学生の頃、毎日心配なことばっかりあって、明日になるのがいやでいやでしょーがなかった頃。電柱触さわながら、どころか、道に立ってる電柱全部さわらないと帰れなかった。

 そーゆーのって、度がすぎるとちゃんと病名がつくと知ったのはごく最近の話。手をずっと洗い続けちゃうとか、清潔に関する強迫観念でよく知られてるパターンの、そのテの中に含まれるらしい。
 結局、何か心配事がある時に「○○を△△しないとこの心配ごとが解決しない=うまくいかない」という強迫観念で、実際にその心配事とは関係ない何事かをやり続けてしまうらしいんだな。
 でもこれって、悪いことではないんだって。そーすることで(たとえば電柱をさわることで)自分の中の不安が軽減されて、「そーすること」が日常生活に支障をきたさない程度なら別にやっててもいんじゃないの、みたいなね。電柱さわって帰るくらいで本人の気が休まるなら別にいんじゃねーの、ってゆー。
 あとは、自分で意識して改善してくことも可能なんだそうな。たとえば「電柱をさわること」と、「不安の要因をクリアできること」は、そもそもまったく関係ないんだってことを改めて認識してみる、とか。電柱さわって帰ったからって今抱えてる不安の原因が解消されるわけじゃない、そこに因果関係がないってことを自分でちゃんと意識するってことね。

 ……っちゅーよーなことを何かで読んで、「へぇー!(72へぇ)」と思って、そんでふと気づいたのは、たしかに心配事があると自分は今でも電柱さわるな、と。
 なんで電柱かはわからない(笑)でも昔っから電柱なんだよなー。

 だからまつもとくんがWebで小さい頃意味もなく電柱さわって帰ってたって、そーゆー内容のことをちょろっと書いてた時に「あたしもあたしも!」と無駄に盛り上がってみた。この人は今でも不安なこととか心配事があったりすると、無意識に電柱さわってたりしないだろうか、と。

 そーゆー、どっか漠然とした不安。自信家で、どっからどう見てもエラそうに見えるこの人のどうしても消えない揺れてる感じとガツガツ感。

 まつもとくんは、嵐になってから5年間、ずっと崖っぷちにいて、ずっと明日解散しそうな顔してる。

 「いちねんぶりのライブだぞー!」「たのしいねー」「楽しいねー!」
 ……って言いながら、最後には1人でながながと、そしてしんみりと、明日解散するんじゃねーかってくらいの内容の挨拶をしてる(聞いてるうちに動物さんとパン屋さんが電池切れをおこしそうな勢いである。)
 それは今に始まったことじゃなくてもう最初っからずっとそうで、5年たっても明日解散しそうなのはどーなんだよって笑ってても、ちょっと、ほろりとさせられる。

 うまくいかなくって、ほんとに泣いてたこととかあったんだ。
 最後に何か言おうとして口元までマイクを持っていって、でもなんにもしゃべれなくてそのままマイクをおろした。
 大丈夫だからおまえあんま気にすんなよ、がんばれよ、って、ばしっと背中を叩きたかった(ような気がする。)

 それを思えば、今は全然。
 声が上ずって涙腺決壊しそうになったりするとか、明日解散するような挨拶とか、そういうの、もう全然必要なくって、あんた「素晴らしき世界」の雰囲気に流されすぎだよ、なんでそーなんだよーって、からっと笑い飛ばせるくらいの。

 だがしかし。
 昔も今も変わらずに、松本潤はコンサートの終わりで明日解散しそうな挨拶をする。
 なんでそんなに崖っぷちなんだ。
 前からずっとそう思ってたけど、今でもずっと思ってる。
 (やっぱり自分で自分の後ろの道を破壊してるんだろう)
 (そんでわざと断崖絶壁にしている)
 (そうとしか思えない)



 今年の松本潤は、1人で舞台をやっていた。
 舞台の前に、目標にしてること…という言い方じゃなかったかもしれないが、とにかくこういうふうにしようと思っているイメージがあって、それができるかどうか、というよーな内容のことをゆっていた。
 私はちょっとそれが気になっていて、そんで。

 そんで、結論からいえば、それは「自分以外の人の力も借りてみよう」とゆーことだったらしい。

 この人はほんとに、「何度も何度も何度でも どうしましょういつ何時も」の人だ(と、思う。)
 それが人の力を借りる、この場合は「なにもかも自分でやろうとしない」っていう意味になると思うんだけど、それをやってみようと意識してやるっつーのはそれは確かに「目標」だ。

 自分の好きなように自分でやるのって、周囲と折り合いさえつけば結構簡単。
 人にやらせといてそれに文句つけるのは、もっと簡単。
 でも、自分で手を出さない(出せない)ことで、人がやったものを全部引き受けるとゆーのは案外難しい。
 勿論それは環境に左右されまくるけど、でもとりあえずそーいうふうにもならなきゃ、とか、思い始めてるのかもしれない。今。

 その、舞台。
 キャルは、じゅんくんみたいだった(と、書いてしまうのはカンタンだ。)

 なんとなくこの人を尊敬するのは「あきらめない」ことだ。
 自分をわかってほしいと足掻くのはそれは人に対する信頼には違いなく、元々対象の人物(キャルの場合は父親)のことに興味がなければ、自分をわかってもらおうとは思わない。その人に対して、怒ったり、憤ったりはしない。
 もしキャルと似ているとすればそういうわかってもらおうとする姿勢、とか。
 「わかる人にだけわかればいい」って言いながら、そういうのも全部わかってくれっていつもそう訴えかけてるような。
 わりと昔からそうだった(ような気がする。)
 そういうの、結構、ものすごく、うらやましいと、思ってる。

 恵まれているなと思うのは、そういう姿勢を確かにわかってくれている人が近くにたくさんいる(だろう)こと。コンサートに細かく細かく手を入れられるのは、それを実現させてくれる周囲があるということで。明日解散するような挨拶を長々とできるのは、黙ってそれを許してくれる人たちがいるということで。
 たぶん、そういう状況ができてきた理由の中のひとつには、たしかにこの人のうっとおしくもうらやましい「あきらめない」姿勢が含まれている。

 ちゃんとわかってもらってるから。
 だから安心して、逆にもっともっと!って、自分の後ろを崖にしちゃうのか?

 そしてきっとこの人は、今日も明日もあさっても、明日解散しそうな顔してせっせと仕事をしているんだろう。
 そういうところも、猛烈にうらやましいと私はおもっている。

 時々電柱さわってるかもしれないけど、不安を乗り越える方法はちゃんと自分でわかってる。
 人って、きっとそういうイキモノだと思う。
 そういうこと、いっぱい、おしえてもらってる。
 ただ、黙って見てるだけでも、そういうこと、いっぱい、おしえてもらってる。



 This is a Little Song, a Tiny Song この手高く高く今舞い上がる
 友を信じる優しい声が 遠く遠く君の元へ届きますよう


 遠く遠く君の元へ

 遠く遠く、貴方の元へ届きますよう


 おたんじょうびおめでとう

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