そのバンドのことを私はそこまで好きではなかったんだけど、世代的に「嫌いではない」というくらいかなぁ程度には好きだったの。

そのバンドが解散して数年…ほどはたってなかったと思うんだけど、バンドの一員だった人が個人で新しいバンドをつくってデビューしたのね。そんで、その人がラジオをやってたわけだ。私はその人だと意識してラジオは聞いていなくって、ただ、話の流れと名前から「あ、あの人だ」と顔が浮かんできた。

今のバンドつくる前にも、僕バンドやってたんですよ…
デビューもして…
そしたらね、そのバンドがうっかり売れちゃって…それが悪かったんですけどね…

なんか、そんな内容だった。ラジオから流れてきた話は。

私はその前のバンドのことをそこまで好きではなかったんだけど。
でも「嫌いではない」程度には好きで。

そうか。でも、その中にいた人は、あの時のことをあまりよくなかったと思っているのか。
と。
そんなふうに思った、そのなんというか、説明のしようがない悲しさというか空しさというか無常感というか。
そのラジオのこと、ちょっとそういう苦い感じでおぼえてる。



二宮は後悔してしまうんじゃないかって。
デビュー「してしまうこと」に対して。
それは、避けたいなぁと。わりと真剣に思っていた時期があって。

もう、おおむかしといってもいいような、むかしの話なんだけど、それは。

後悔するってどういうことか。

わかんないけど、後悔するのって結構簡単なことじゃないかって。
あぁすればよかったとか、こうすればよかったとか。
後からその時の自分を否定することはわりと簡単で。
だって切っちゃえばいいわけだから。その時の自分の思いとか感情とか努力とかそういうの、切っちゃえばそれですむ、みたいな。

結局後悔って、気持ちが変わることかな、とか。
その時に信じていたものが信じられなくなって、信じていた自分を妙に冷たく客観視してしまうこと、とか。
わかんないけど。



ニノはデビューして変わったとよく言われていた。
主に、やる気の問題で。やる気になって多少ガツガツしてるように見えて、そんな子じゃなかったのに、とか。もしかしたらそういう観点でも。
たしかに、ニノはたとえばコンサートで花道にぱっと出てくるような時でもおそろしくフツーに出てくる人で、「普通に道を歩いている二宮くん」と「コンサートで歌っている二宮くん」にあまり差がないというか、いやもうちょっとそこは差があってもいいんじゃないですか、みたいな部分もあり。

ただ、印象としてニノは「やればできる子」というより、「やんなくてもできる子」だ、とか。
ソツなく、なんでも、ある一定水準以上を。
それが良い悪いの話ではなく。

まだ、うんとJr.だった頃にね。
コンサートで、滝沢の代わりに二宮がJr.紹介したことがあって。
滝沢が声枯らしちゃってて、その代理で。
「えー滝沢が×だと二宮がやるのか!二宮ってすげぇな」と、とても単純に思いました、その時。

その時の「すげぇな」は、わりと今でも続いてる。
その時感じた「すげぇな」のまま、今でも時々「すげぇな」と思う。

じゃぁ、結局、二宮は、嵐と出会って、A・RA・SHIを歌うようになって、変わったのか。
変わっていくのはよいことなのか。



何度も書いてる気がするが、私はいまだに成長という言葉が好きではない。
「成長」なんて表現は結局、その対象者が「自分の思い通りの言動をしている」と同義語なのではないか。
それは本人の資質や本人の変化とは何の関係もない話で、ただそのことを見ている自分がその対象者をどう評価しているかと、ただそれだけの話ではないのか。

人が生きてくって、そういうことじゃないだろ。
その人はその人のためにあり、決して「わたくし」のためにいるわけじゃないんだ。

だから、誰かが変わっていくことに対してそれを評価するのではなく。
ただ、基本的には肯定的に受け取りたいと思っているのかもしれなくて。

人は変われるのだということ。
「幸いなことに」



では、ニノミヤは、嵐と出会って、A・RA・SHIを歌うようになって、変わったのか。
変わって、ないのか。


 そんなことどうでもいいじゃん


…あっさりそう言われて終わりそうだ。
そして、それが全部だ。たぶん。

ものすごフツーに花道に出てきたニノも、毎日マメにニッキを書くニノも、それが二宮であることに変わりはない。

あたりまえか。

そういう「あたりまえ」なことが、二宮の中にはたくさん詰まっているような気がしている。
すごくシンプルで、でも大事なことがいっぱい。



ニノの書くニッキって、かゆいところに手が届くじゃない?
人への興味がものすごく強くなきゃ、あぁいうの書けないと思うんだよ。

 そんなことないって
 人なんか興味ないって

って、そんなふりをして。



初めて名前を知った時、このひとは中学2年生だった。
今はもう、とっくに車も乗れる年齢で、テレビ画面の中で酒飲んでも怒られない。

最初は後悔するんじゃないかと思った今のこの未来は、彼の「想定の範囲内」だったのかなぁ。

範囲内でも範囲外でも

 どっちでもいいじゃん

って言われるだろうなぁ。

つまりは。
変わってても変わってなくても、二宮がそこにいることを確かにわたしは信じることができる。
そういう実体を持って彼がそこに存在している、そういう今があって、それは確かに未来へ続いているということだ。



 にのみやくんへ。

 おたんじょうびおめでとう。

 動物さんと、パン屋さんと、天気予報さんと、話の長い仕事好きな誰かさんによろしく。
 いっぱい幸せになれよ!

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