![]() 努力していれば必ず見てくれている人がいる。…っていうのは正しくはないと思うの。 それは、努力したのをたまたま見ててくれた人がいて、今現在その努力が報われている状態にある人だから言えるんだと思うわけよ。 自分でいっぱい努力してたところで見てくれてる人がいなくて報われてない場合の方が、実際は多いような気がするの。そんでもって「それはその人がほんとは努力してないからだ!」とか、そういう問題ではないわけなのよ。 努力が報われるのは、必然じゃなくて偶然よ。それは確信的にそう思う。 どんだけ努力しようががんばろうが、報われないし、見てくれてる人もいない方が多いっしょ。 がんばっても、見てもらえないわけ。 いや、見てくれてる人はいるかもしれない。でも、いないかもしれない。 見てくれてる人がいなくても、それが報われなくても、それでも。 それでも、がんばれるか。 多分、問われているのはそこだと思う。生活する、ということは。 人が生活するにあたって、問われているのは、そういうことだと思ってる。 それでも、自分のラインを保っていられるか。 自分のラインを保とうと、そう思っていられるか。 もし、誰も見ていなかったとしても。 もし、今していることが報われないことだったとしても。 ![]() 彼は、京都にいた(ことがある。) 1年目はまだ、よかった。 京都なら、東京じゃできないことがやれる。 真ん中で踊れる、歌える。 だからまだ、よかった。1年目はいろんな人が入れ替わり立ち代りわんさか東京から来たし。秋になって客席が埋まらなくても、それでも、東京から入れ替わり立ち代りゲストという名で人はやって来た。 見てくれてる人は、いた。そう、思えた。1年目は。 翌年は、見てくれてる人がいたのかどうか、ちょっと、断言できない。 ほっとかれてる、ように、見えた。 それでもそこにいる人たちはそのぶん、前向きで、自由だった。 自由の国アメリカって空気が流れてて。 そういう中で大野智はただ黙々と踊っていた(としか表現の仕様がない。) 当人が後々言うあの時のCOOLは踊れてたって、そのCOOLはこの2年目の時の話だ。 照明落とした暗いステージの奥の方に、ジャケット着た智がぽつんと立ってる。 この時のCOOLはそういう始まり方で、そこにイントロがかかる。 今でも思い出すと遠い目になる。あれ、なにもかもがかっこよかった。 そういうものを、つくっていた。ただ黙々と。 誰も見てないかもしれない、報われないかもしれない、そんな状況下でただ黙々と。 あの時、彼が努力していたことは確かだ。 誰も見てないと言われてもただ黙々と踊っていた。確かに。 その努力が報われたことに意義があるんじゃなくて。 そういう状況下でも、それでも、がんばれるってことに多分意味がある。 それでも、がんばってたことに、多分、意味がある。 ![]() 10月の幕末舞台、じつは結局見なかった。 智の舞台を見てないなんて、我ながらありえない。 このひとはわりと常にいつやめるかいつやめるかみたいな、わりとほっとかれてる状況下にいて、でもがんばってんのよ、そう見えないけどでもがんばってんのよ、みたいなところがあって、だからそれこそ「今見なきゃ!」って、ずっとそう思ってきたけど。 今、じゃなくても、次、もある。 今、を見なくてもがんばってる(に、違いない。) 智の舞台の出来が悪いわけないじゃないの。 見れなくてもそれはいいものだったに決まってる。 今はごく普通にそう思うことができる。 また次、できれば私が時間の取れる時期に(笑)やってくれ、とか。 今、だけじゃなく、その次、を信じられるようになったのは。 それは確かに今迄彼が積み重ねてきた努力の成果なのだと思える。 誰が見てても見てなくても、彼ががんばってることに変わりない。 昨日も、今日も、明日も、明後日も、その先も。 ![]() 智さん、事務所に入ってもう12年とかたっちゃうんだって。 それは単純にびっくり。 ということは、Jr.が職業Jr.のままそれまでのJr.の枠をなくして仕事するようになってから12年もたってしまったということよ。 その間、智さんがやめなかったということが一番のビックニュースだけど(笑) 今年もおめでとうと言える幸せ。 それは多分、来年もおめでとうと言える幸せ。 来年も、再来年も、その次もずっとずっと。 おたんじょうびおめでとう、そう言えることが幸せだと思ってるよ。 おたんじょうび、おめでとう。 |
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