ご生誕記念!バックトゥザ大野智(なんですかそれ…)

 当時をご存知ない方は話半分で(笑)、ご存知の方は「あーそうだった」とか「いやそうじゃなかった」とか適当に突っ込みいれながらご覧くだされ。そしてワタクシが重大な思い違いをしているようだったらすかさずご連絡あれ;いろいろ確かめたい点満載なんだけど、時間がないので資料読まずに書いています;;

 大野智くん(26日付22歳)は、Jr.がJr.としての仕事を展開するよーになるその直前ぐらいに事務所に入っておるです。当時主流だった履歴書勝手に送られたパターンで(最近は自分で送ったと勝手に送られたと半々くらいよね…)、オーディションは「母ちゃん」と一緒に参加。オーディション中、背が小さかったのに後ろの方にいたので振付の先生が見えず、したがって踊りがわからず、しょうがないのでガラスのむこうで待ってる「母ちゃん」に手を振ったりなどしていたところ社長にそれを咎められ(笑)、「名前は!?」と聞かれたので「おおのです」と答えた、と。本人最近になって「それで名前をおぼえられたんじゃないか」とのコメントを出しております(笑)
 たきざわくんの代よりも半年くらい早い入所で、でもってこの時はまだ確か振付師が某サ○チェさんでは「ない」のですよ。そうじゃない時代もあったの、その昔は!(爆)




 オーディションの後、TOKIOの武道館コンサートに出てるはずです。えーとこの時は武道館のアリーナ部分に客を入れない、円形のセットの組み方をしてまして、その円形の一番外側地面の部分に赤いTシャツを着たものすごい人数の子どもたちがわらわらわらわら〜〜っと出てきて、1曲ちょろっと踊ったのですね。今でも時々見受けられる光景ですが;それが、ステージとしては「初」になるんだと思います、多分;

 その年の年末に、Kinkiの初武道館コンサートがありまして。あのー、チケットが全然届かなかったという、魔の年末年始武道館シリーズ。1万人くらいの人の手元にチケットが届いてなく、今みたいに電話確認システムなんてものもなかったんでそもそもその公演が取れてるかどうかもわからず、でもみんな郵便振替の受領書片手に武道館にやってきてその場で手書きの「これでほんとに入れるんですか」的な紙切れをもらってコンサートは決行されてしまったという、非常にオソロシイ事態に陥った年末のコンサートに出演しておりまする。
 MCの時にね、ジュニア紹介があったわけですよ。やっぱりこの時もぞろぞろと(笑)出てきて。光ちゃんが片っ端から紹介してったんですけど、この時「大野智です」とかマイクで発言しているハズ。そしてそれに対して光一が「おおのくん!」とかオウム返しに返しているハズ(笑)。ついでに、智さんの並びには町田と大坂俊ちゃんがいて、「おおさか」という名前に対して「東京なのにおおさかくん!」という返し方を光ちゃんはしているハズ。もっとついでに言えば、あまりのJr.紹介人数の多さに途中で光ちゃんはテンパってしまい、「多いなこれ!」と叫んで最後の1人までは紹介していないハズ…。

 で、あけた年のゴールデンウィークに滝沢と翼の代がどどっと入ってきまして、本格的にJr.がJr.としてやる仕事が展開されるよーになるわけです。怪談トリオとかね。いえ大野智は怪談トリオではありませんが(笑)
 当時テレビ東京で愛ラブSMAPという番組をやっておりまして、それが終了した後の番組がその名も「愛ラブJr.」という。Jr.史にその名をとどろかす(爆笑)もー本当に世間的に見ておもしろいかどうかとかそゆこと一切考えてない、Jr.がJr.によるJr.のための超どうでもいい感じの番組でした(笑)
 それが始まりまして。そんでここでですね、Jr.のみで「P・G・F」(元々少年隊の曲っす)を踊っておるのです。何人くらいかなー30人くらいだったかなー。真ん中にヘッドセットマイクつけた怪談トリオがおりまして。センター滝沢で、でー、その滝沢の真後ろに大野智がいるわけです。
 みんな超!コドモなんだけど、でもなぜか大野智さんは当時から圧倒的に踊れてるんですわ。アットーテキです、ほんと。踊れてるっつーかなんだろ、みなぎる自信とゆーか、完全に酔って踊ってる感じとゆーか(爆)。あのー、豆も豆すぎて身長3センチくらいしかなかった翔くんが(いや30センチはあっただろう)(もっとあっただろ…)、とにかくこの人を真似て踊りなさい、この人にくっついていなさいと言われたその人が大野智だったらしいんですが。
 とにかく、当時そんくらい突出して踊れていたわけです。超コドモな中、1人出来上がってた印象があるの(笑)お手本だったし、教科書だった。そんな感じ。

 智さんは番組内でロケとかにもちゃんと(ちゃんとか!)行ってました、ディズニーランドとかね。なんとなくおぼえているのは、激辛ラーメンとかのロケに連れ出されていたことと、寒い中外の公園で運動会チックなことをやらされていたこと…(な、いい番組やろ?)
 そーゆー意味では、ごくふつーなJr.でした。ごくふつーなというか、ごくふつーなお仕事のあるJr.でした、智さんは。雑誌とかでみ〜〜んなに「おもしろい人」と言われていて、そうなのかなぁ、と不思議に思っていたりもしましたが、私が(笑)。画面の外にはいまいちそのおもしろさが伝わりにくかったんです;




 京都に行ったのは97年の夏から。
 同年6月くらいの雑誌で「京都には、「行けば?」って言われてる」みたいな、超大野智っぽいコメントを出してましたが、笑い事でなく実際京都に行って、そのまま行きっぱなしになっちまいました。
 当時京都駅が大改装していてそれが終わって、駅から歩60秒くらいのところに劇場ができたんですね。できたっていうか、ジャニーズ事務所とか、吉本とか、あと変わったところではオムロンとかね、いくつかの会社が出資して劇場をつくったわけです。
 京都シアター1200、運営会社の名前がシアターアーツといいました(だったよな…ちがったかな;;)今は京都劇場、という名前に変わって運営会社も変わったんじゃなかったかな…。

 その劇場でずーっとやっていたことが「KYO TO KYO」です。略して「KTK」、キーボードだとよくKYKとか打ってしまいがちなので注意です。「きょーとぅーきょー」とか、「きょーときょー」とかって読みます。KTK、つまりは、ショーです。レビュー…までいかないけど、多少ストーリー性のあるショー。
 このプロジェクトと同時進行で「関西ジュニア」つーものが生まれてきてまして、このKTKの公演、最初にメインを務めた3名が、原ちゃん(とゆー当時のジュニアの子、智さんより年上で先輩)、大野智、田中純弥(当時の関西ジュニア)だったわけです。
 公演は基本的に1日5回、劇所こけら落としだった夏休み期間中は確か休みなしじゃなかったかなぁ…、1日くらいはあったかな…。
 で、秋になって他のJr.の子も3名くらい東京から呼ばれて、その子達と公演を交替しながら、智さんは京都にはりついてました。この年もその次の年もお誕生日当日に公演があって、大野智誕生日スペシャルみたいになってお祝いされたりもしました(私は見てませーん(笑))

 11月にKTKがとりあえず終わって、12月は大阪松竹座のMASK(坂本井ノ原岡田版)に出て、年末に東京に戻ってきて東京宝塚劇場の公演に出て、春にまたKTKが始まるまでには普通に先輩のバックについてMステにも出てたりしました。少年隊が湾岸スキーヤーをがんがん歌っていた頃です。
 そして春になって再びKTKが始まって、智さんはまた京都に行きっぱなしになりました。

 ゴキブリだらけのマンションだったり、ワイヤーで吊り下げられながら泣いたりしたのは、この2年の間の話です。いろいろあった、大変だった。
 でも、楽しかった、ん、ですよ。楽しかった。
 当時ここで踊っていた人達はもうほとんど残っていないから、「どうも大変なことがあったらしい」っていう感じしか今はないかもしれないんだけど、でも、楽しかったの。その2年の間。
 「私がジャニーズで見たかったものってこれだ!!」って、ずーっとずーっと思ってました。今でもそう思ってるところはある。あれは、ひとつの理想の形でした。私の中では、確実に。




 その年の公演が終わって、翌年も続くはずだったKTKは続かず、12月は公演がなかったはずの大野智はどうも京都にはりつきっぱなしで、かといってその時やってた松竹座の滝沢MASKに出るわけでもなく、こりゃーこのままフェイドアウトになってしまうんかいな、とこちらは思っていました。
 最近になって本人が、この時期に事務所やめようと思って電話したら、社長に「東京に戻ってるなら仕事ある」と言われて気がついたらKinkiの後ろで踊ってた、とコメントしてましたが、ほんとに、いつ消えてもおかしくない状態でした。
 ほんとの、ほんとに。いつ消えてもしょうがない、とこっちは思えるような、そんな状態でした。

 ところが。
 いつ消えてもおかしくない状態だったのが、年明けになっていきなり日生劇場光一MASKで町田とツートップで踊っているという話が飛び込んできまして。「うっそーん!」と思って這うようにして日生劇場に行ったら(フライデーの件があって大激震中のことでありました…)、大野智はほんとに踊ってました。
 ただしふくふくしすぎていて、一緒に行ったオトモダチはそれが大野智だとは最初気がつきませんでした(爆)。京都ではずっと、まさにクールビューティーさんだったので、なんでいきなりふくふく大魔人になっていたのか!そのくせやっぱり「踊るとすごいんです」な状態なのはどうなんだ、等、憶測が憶測を呼んで勝手に大混乱でした(笑)

 そしてゴールデンウィークにJr.のコンサートがやってきます。大野さん、この時衣装モーモーつなぎ(ちょっとちがう)で、1曲ソロで歌っています。コメントに言う、客席が沸いたから俺もまだ人気あんじゃんと思ったら、あの人誰?っていうざわめきだった、ってやつです(笑)
 いや、でもそんなことないのよおおのくんっ!って感じでしたが、どっちかっつーといきなり1人でセットからにょきにょきはえてきたので客席がびっくりした、っつーのが正解な気配です;。

 で、MAです。当時MAJ、ともゆいましたが。ミュージカルアカデミージュニア、とも呼ぶです。当時のMAはずっと一緒に京都に行ってた原ちゃん、秋山、大野、町田、の4名編成でした。原ちゃん曰く、MAは「まだ、あきらめない」の略か、「みんな、あきやま」の略だ、とのことでした(爆)
 4人でプレゾンにも出てたりして、あぁ、智さんはここに落ち着くのだな、そしたら私MA見て余生を過ごしてもいいな、と、そーゆーふーに思っていました。




 そして、気づいたらハワイでした…。
 マジ、「気づいたらハワイ」でした。
 こっちも驚きましたが、当の大野智本人の衝撃たるや、今思い返してもつい笑ってしまう感じです(笑)
 そうして、まる3年、たちました。もう4年目です。

 デビューしたこと自体が奇跡みたいだって、本人がコメントしてる雑誌があったんすけど。
 奇跡じゃないのよ。奇跡ではないの。いや、奇跡だったらそれはみんな奇跡であって、大野智だけが奇跡じゃない。
 もし奇跡があるとすれば、これだけ流転してるJr.生活の中で、大野智がそれを投げなかったことと、もうひとつ、どんな場合でも踊る仕事だけはそこにあった、ってことじゃないかなと思います。KTKもそうだし、MASKも、そのあとのMAも、全部踊る仕事なの。
 裏切るとか裏切らないとかそーゆー表現は当てはまらないんだけど、でもなんというか、この人の踊りに、この人のダンスに、裏切られたと思ったことはこの長いJr.生活の間で一度たりともないんです。一度たりとも。
 もったいないと、そう思ったこともないです。どんなに簡単な振付だろうが、たとえ手を伸ばすだけの振付だろうが、それを大野智が踊るということは、そこに彼独自の空間ができるということに違いないからです。

 長い間この人はずっと踊ってきていて、そして今でも踊っている。もし、奇跡というなら、そのことが奇跡。奇跡であり、幸運です。私にとっては。そして、大野智本人にとっても。多分ね。
 そしてそれはなによりも嵐にとって奇跡であり、嵐にとって幸運にちがいない。




 大野智のいるところに踊る仕事は降ってくる。だから嵐は大丈夫にちがいない!(笑)
 …極論だなぁ;ばかみたいだけど、でも結構本気でそう思っているのですよ、ワタクシ。

 おおのさとしさま。
 おたんじょうび、おめでとう。
 これからも、たくさんの奇跡と幸運を、貴方に。