となりの芝生


 私にとって桜井翔くんとは、長いこと『となりの芝生』の人でした。
 それが『となりの芝生』であることを差し引いても、その芝生は本当に青くてキレイで、意味もなく「いいなぁ、うらやましいなぁ」とずっとずっと思っていました。初めて見た頃の翔くんは本当に小さくて可愛くてニコニコしていて、そのくせ「星新一が好き」などと「・・・ほぉ」とこちらが唸ってしまうような発言をしている、見ていて本当に楽しいおもしろい、うらやましくってたまらない、でもあくまで『となりの芝生の人』でした。

 となりの芝生の彼の最大の特性は、誰とでも仲が良いことだと思います。ボーダーラインがない。上も下も関係ない。確かに多少「シャイ」かもしれないけれど、社交性はすごく高い。コンサート中は、あっちこっちでいろんな人とからんで色んなことしてて、「あっ、あそこでなにか楽しそうなことをやっている!」と双眼鏡をかまえると、かなりの確率でそこには翔くんがいたりもしました。悪ノリしてる時の翔くんはほんっとーに楽しそうに笑っていて、やっぱり「いいなぁ」と思っていました。

 99年の頭に大きな事件があって、翔くんは『シニア』というカテゴリーに分類されるようになりました。『シニア』という名前が出来た頃から翔くんはあちこちで『シニア』を強調するように口に出すようになり、その頃から顔つきもちょっとだけ変わったような気がします。
 翔くんがあの頃なにを思っていたのか私にはわからないけれど、・・・ベタな表現だけれど、いろいろあったのだろうな、とは思うのです。いろいろ考えていたのだろうな、と。

 正直な話、まるで学事暦のように表れたり消えたりする翔くんを見ていて、いつか近い将来、この人を見れなくなってしまう日がくるだろうと思っていました。それはジュニアの他の誰よりも強い確率でそうだろうと思っていました。翔くんには翔くんの人生があり、彼なりの人生設計があるものなんだろうとどこかで思っていました。
 だから、99年夏のツアーに翔くんが地方遠征していると知って「あぁ、じゃぁもう辞めてしまうのかもしれない」と思ったのです。私は。私の記憶が正しければ、翔くんが京名阪以外の地方につくのはほぼ初めてのことなんじゃないかと思って。もう最後だから地方も行こうって思ったのかなって。そんなふうに思ったんです。じゃぁ、この夏は覚悟して翔くんを見よう、と。

 ところが。
 フタをあけたら「嵐」でした。

 「・・・翔くん、デビューしちゃってもいいの!?」と思ったのは事実です。と同時に、私が思うよりもずっとずっとずっと、翔くんは自分が足を踏み入れたジュニアの世界を大事にしていたのだなぁと思ったのです。それは私にとってとんでもなく、もう信じられないぐらい嬉しいことでした。

 デビューしてからの翔くんは、すごくいろんなものをこれまで以上に大事にしているような気がします。自分の生活、友達、学校、それから、「嵐」に関しても。実際一番しゃかりきになっているのは翔くんじゃないかと思うほど。
 学業優先の自分の態度に関して、多少悩んでいるようなコメントも雑誌で見かけました。でも・・・なんていうのか。「気にすんなって」って感じなんですね。学業優先なのは、もうずっとずっと前からの翔くんの姿勢なんだから、それを変える必要なんか全然ないんだから。大学入っても「翔くんは試験休みで〜」ってのがあってもいいと思うのね、ついでに智まで「試験だから」って休んじゃったりしてさ、キミは試験ないだろう?っていう(笑)。その程度でいいと思うのですね。「大事」の度合いは。
 翔くんが嵐を大事にしているのはよくわかったから。だから、もっと自分の好きにしていいんだよ、って。そして、それを気に病む必要はないんだってことも。

 私的な感覚としては、『隣りの芝生』だった翔くんが『自分とこの芝生』になったような感じなんですけども。あの頃「いいなぁ」って眺めていた『隣りの芝生』の青さっていうのは、『自分とこの芝生』になってみても変わらないです。隣りの芝生だったから青く見えてたわけじゃないのね(笑)。
 このまますくすくキレイに成長してくれたらいいなぁと思います。
 ・・・月並みな言い方だけど、本当に。


 以下お誕生日によせて、ちょっとひとつ詩の引用などしてみようと思います。大学の時、退官される先生にむけて、別の先生が贈る言葉として引用していた詩なんですが。これ読んだ時に、なんとなく翔くんを思い浮かべたんですよね。ちょっと原本にあたってる時間なくて;;;、引用の引用になってしまうのですが。元々は宇野収訳『青春という名の詩』に入っている、サムエル・ウルマン、という方の詩・・・だ、そうです(笑)

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 青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方を言う。
 ばらの面差し、紅の唇、しなやかな肢体ではなく、たくましい意思、ゆたかな想像力、炎(も)える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
 青春とは怯懦(きょうだ)を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する。
 時には、二〇歳の青年よりも六〇歳の人に青春がある。
 年を重ねただけでは人は老いない。理想を失う時初めて老いる。

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 六〇歳であろうと一六歳であろうと人の胸には、驚異に弾かれる心、おさな児のような未知への探求心、人生への興味の歓喜がある。

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 人から神から美・希望・喜悦・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。
 霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲嘆の氷に閉ざされるとき、ニ〇歳であろうと人は老いる。頭(こうべ)を高く上げ希望の波をとらえる限り八〇歳であろうと人は青春にして止(や)む。


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 翔くんの「青春」が彼にとって素晴らしいものでありますように。
 それから、どうぞこれからも『嵐』をお頼み申し上げます(笑)

 桜井翔さま。お誕生日おめでとう!



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