本 能


 それは、ファンという稼業をしている「私」(であるところの少女たち)に対して、限りない可能性とともに、本能的な不安を感じさせる、ということなのだ。
 それは、多分私の中の「本能」として。
 「私」はきっと不安になるのだ。それがきっと、「私」を不安にさせるのだ。

 「今好きな人はいますか?」という問に対して、他の誰が「いるよ」と答えたとしても、きっと「私」はこれほどまでに不安にはならない。これほどまでに、「本能」で不安を感じない。
 それはきっと、不安と可能性を同時に持っているサクライという名のヒトがはじき出した答えだから、だからこんなに不安になるのだ。だからこんなに、「私」を不安にさせるのだ。


 「好き」は多分人によって重さが違うのだ。なんとなくだけど、でもそうなんだと思う。
 つまり、1人の人が持ちきれる「好き」の重さが、たとえば100あったとして。自分の中に、人に配れる「好き」が100だけあったとしたら、1人の人に対して100全部をつぎこんでしまう人もいるだろうし、均等に10くらいずつ配る人もいるだろうし、割合を考えつつそれぞれに配る人もいるだろう。それが「好き」の重さの違いになるんだと思うのだ。
 「好き」の重さはそれを受け取る側によっても変わってくる。たとえば恋愛の場合、相手から100丸ごともらうのは重すぎるからイヤだと考える人もいるだろうし、逆に恋愛なんだから100全部もらえないとイヤだと思う人もいるだろう。同じ100でも受け取る側によってそれは「重」かったり「軽」かったりするわけだ。そして、目には見えないはずの「好き」の重さを量るもの、それが「本能」なんじゃないかと思うのだ。
 「私」は「本能」で相手の「好き」の重さを量る。相手が、貴方がどれだけ「私」に「好き」をむけてくれているのかを、瞬時に「本能」で量ることができる。「私」であるところの少女達は敏感な生き物だ。自分たちが大事にされていない=「好き」の重さが感じられないことにすぐ気がついてしまう。
相手のほんのわずかな悪意や呆れや、つまりは「意識が自分にないこと」を見逃さない。相手が本当にそう思っているのかどうかは、この場合あまり関係ない。ようは、「少女たちにそう思わせてしまう」ということがその根本になるからだ。
 そして、「私」が一番怖いのは。最も、怖れていることは。
 相手が、あの人が、「私」に「好き」をひとつも配ってくれないこと、だ。100あるはずの「好き」を、ただのひとつもわけてくれないと感じることだ。100あるはずの「好き」が、ひとつ残らず「私」の知らない誰かにつぎこまれているのかもしれないと感じてしまうことだ。

 「今好きな人はいますか?」という問いに対するサクライという人の答え、「いるよ」に関して、これに胸騒ぎを感じるのは、彼という人が100の「好き」を誰かにつぎこんでしまうように思えるからだ。100の「好き」を丸ごと「私」の知らない誰かにつぎこんで、「私」にはそのカケラですらも分けてくれないかもしれないと思えるからだ。そんな胸騒ぎを、「私」は「私」の本能の部分でなんとなく感じてしまうのだ。そしてその胸騒ぎは、あっという間に不安となって「私」の中に根をおろすのだ。
 本能的な不安とは、「私が一番ではない」という不安だ。たとえばコンサート会場にいるその一瞬にも、たとえば握手会でのその一瞬にも、「あの人は私を、ひいては私たちを一番にはしてくれない」という不安だ。それを感じ取れてしまう「不安」だ。当人がそんなことこれっぽっちも思っていなかったとしても、「私」(であるところの少女たち)がそう「感じとって」しまえば、「不安」は「不安」として眼前に横たわる。
 彼は私の知らない誰かに100の「好き」をすべてつぎこんでいる(かもしれない。)
 そして私には100の「好き」のカケラも分けてくれない(かもしれない。)
 すべては憶測でしかない。けれど、憶測は憶測であるがゆえに「不安」という得体のしれない暗いものに変化して、そしてこれは同時に憶測であるがゆえに「可能性」を同時に持つことができる。

 「不安」は「可能性」との諸刃の剣だ。「私」は夢を見る。ほんのわずかな可能性を夢見る。「不安」にさせるほどに、「誰か」の影を感じるということ、そしてその「誰かの影」は、「私」の可能性に他ならないのだということ。
 彼は「私」に100の好きをつぎこんでくれる(かもしれない。)
 いつかそんな時がくる(かもしれない。)
 その可能性が叶う確率は限りなく低くてかまわない。1%に満たなくても別にいい。大事なのは、その「可能性があると思わせる」というところにあるからだ。可能性があるのかもしれないと、本能で感じ取れる位置に、彼が存在しているということだ。
 本能は不安だけを嗅ぎ取るのではない。
 それと同時に、それゆえに同時に存在している可能性をも嗅ぎ取ることができる。
 「不安」と「可能性」はサクライという人の中に存在する諸刃の剣で、諸刃だからこそそれが彼の武器になる。不安だけではなくて、その裏にある可能性の存在を「私」の中の本能がキャッチするのだ。

 二宮は分類分けすればこのサクライとちょっとタイプが似ていると思う。「不安」と「可能性」を同時に持つという点で似ていると思うが、桜井は色々なことを自分の前面に出してしまうのに対して、二宮はすべてを隠し通せるであろう点が違う。
 松本潤にあるのは「この世ならざる者」の風景だ。現実感がこれくらいない人もめずらしい。不安も可能性も本能でキャッチできない位置に彼はいる。
 相葉に感じるのは博愛主義な空気だ。「みんな愛してる」と言ったとしても、多分この人が言えばそれはウソにはならない。トクベツな1人にはなれなくても、「好き」の一端は必ず分けてくれる人だと、そう本能が確信する。
 智にあるのは、そういうものを飛び越えたポジションだ。私生活はこの際どうでもいいのだ。だから、不安も可能性も感じない。何よりも大事なのは、貴方がそこにいるというその事実だ。貴方はもうそこから消えることはないという、本能で納得できる安心だ。

 「私」は本能で「好き」の重さを量る。「私」は女としての本能で貴方をハカル。
 そして「本能」は警告する。
 だから、この人を好きになってはイケマセン、と。
 そして「本能」が命令する。
 だから、この人を好きになりなさい、と。


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