徒然日記セレクション Y  


どんなところが / 2004.03.28




忘れた頃に書いてみるQ&A。

Q「嵐はぶんさんにとってどのような存在で、どんなところが好きなのですか?」

かんがえました!(いばるな。)
嵐とは、「私に役割を求めてこない人達」であり、「役割を求めてこないところが好き」です。…ビミョー(笑)

「知り合い」じゃないじゃないっすか。アタリマエだけど。
でも、こっちは一方的に「知ってる」部分があるわけで、向こうは「知ってもらう」のが仕事のような部分があり。だがしかし「知り合い」じゃない。

広義の意味で人と人とが「知り合い」(この場合家族とか友人とか仕事仲間とかすべて含む)になると、そこには必ず役割が発生すると思うんです。
ちょっと、いやーな考え方だと自分で思うけど、でも必ず発生していると思う。
親になるなら親の役割があって、そして当然のようにこどもにはこどもの役割がある。
夫には夫の、妻には妻の。仕事仲間ならなおさら、その場所に存在する上での役割が確固として存在し、そしてそれは友達と呼ばれる関係性の上にも発生すると思う。

役割は必ずある(と、思う。)
それを、意識するかしないか、意識して実行するかしないか、の違いだけで。

意識しなければそれはなかったことになる。
でも、どうも自分は逆自意識過剰気味で、すごくそういうことを意識する。
曰く、「ここで求められる役割とはなにか」
ほぼ、日々すべての場面で意識的に考えている。それは多分「無意識」に。

同時に、人は多分誰でも、その役割に沿った行動を取って評価されれば嬉しいのだと思う。
「お菓子を買ってもらったので、やったー!と両手をあげて喜んだら、買ってくれた大人がとっても嬉しそうな顔をした」
これは、こどもの役割として「合格」だ。そうすることで、周りの大人がにこにこしてくれれば=評価してくれれば、それはそれで、多分、うれしい。

でも、もっとうれしいのは、ただそこにいることを、よろこんでくれることだ。

……だろ?

ただそこにいて、その人でいる=自分である、ということだけで、それだけでいい、と。究極、望みはそこにあるんじゃないか。
でもなかなかそうはいかないから、そこに役割が介在する。
自分にとって相手が役割をこなしてくれるのか、こなしてくれないのか。

「お菓子を買ってあげたのに、ありがとう、とは言われたけどあまりうれしそうな顔はしてくれなかった」
このこどもは、こどもとしての役割を果たしていないことになる。

でも、ほんとは、そうじゃないんだよな。

嵐は私に役割を求めない。
いや、こっちから半分俺があーあってゆったらあーあって言えよ、とか、跳べとか手ぇ上げろとか、そういう行動は要求されることがある(笑)
でも、役割を求められたことはない。
役割を果たせたかどうかに対して、評価を下されたことはない。
ただ、そこにいることに対して、「その場にいる」という、私が自主的に選び取った行為に対して、来てくれてありがとう、という、そういう意思表示がなされる。

コンサート会場に行く。舞台に行く。
まわりに人は山ほどいるのに、「個」を猛烈に感じる。
「孤」ではなく、「個」
その瞬間に感じたこと、その瞬間の自分、それは本当に自分だけのもので、好き勝手な感情を持っていい。
そこに自分の役割はなく、私は私であってよく、貴方は貴方であってよい。

肯定された空気、というのか。
…役割、って、最近はっと考えるようになったことなので、あまり、うまくまとまらないんだけども。

役割を求めてこないから。
あまり、私も役割を押し付けたくない、と、思っているのかもしれなく。
だから、嵐に望むことはなにもなく。
ただ、そこにいる、というそれ自体が、何かを肯定することになっているのではないか、と。

うーん。
…わかりにくい(笑)
がんばってまとめ。

人は、役割で生きている。役割こそがその人生を肯定していることも事実だと思う。
だが、人は役割の外でも生き、役割の外にいる自分を肯定してほしいと思っている。
嵐は多分、その役割の外にいる。
私にとっては。





当事者は常に「ここ」ではない場所にいる。 / 2004.05.01




突然ですが少年倶楽部の話なのでお急ぎの方は飛ばしましょう。

で、いつの少年倶楽部の話ですかって、4/18の公録の時の話でございます。
人様の恩恵に与って行って参りました(落涙)
田口の復帰day(「復帰day」という言い方はどうかと思ったが、それはそれでそれっぽいからいいか、と思ってそう書いてみる…)

念のためこれまでのあらすじ〜
ジャニーズジュニアかつーん所属の田口淳之介くんは1月の帝劇DreamBoy中(その前から)膝(多分)を故障しており、舞台終了後それを公的に発表(じゃにーずうぇぶ)して、手術〜リハビリのため、現在プチ休業中。

で。18日のこの公録で一応復帰する、という話が新聞(デイリースポーツ)(だっけ;)に載った。(ちなみに完全復帰ではない。)
さて。復帰一発目公衆の面前。どうやって出てくるか。

こたえ→オソロシイほどふっつーに出てきた(笑)

1人ずつのメンバー紹介の最中、下手からひょこひょこと。
ひょこひょこと出てきて、あのー、あの人、片手つきあげてややヘッドバンキング気味に頭を上下に振ったりすることあるでしょう、あれを。あれをやっており。
なんとゆーか、「あぁっ、変わってない!いいんだか悪いんだかわからない!」みたいな(笑)

太ってもおらず、痩せてもおらず、髪はパーマが落ちて長めのストレートになってて、それは結構いいんじゃないんでしょうか!という感じであり。
そして復帰一発目のダジャレは案の定すべり。

歩けるけど早足では歩けない。階段も念のためやめといた方がいいかも。そんなふうに見えました。でも上半身はフツーに元気。

田口も混ぜて、メドレーがありました。早足でも歩けない彼を含めて、全員参加のメドレー。
田口は下手のソデから10歩分くらいしか歩かない。基本的に下手からその位置へ移動するためだけに歩き、そこからどこかには絶対に移動しない。
でも、メドレー。

これが。できちゃうんだ。メドレーが。ちゃんと。
田口が動かなくても、周りが動くから。メドレー、できちゃうんだ。

メドレーの中の曲にね、「夢物語」がね、あってね。
あれって、基本的に手が動けば踊れるのね。
だからね、田口も普通に踊ってるように見える。どこも悪くないみたいに。
でさ、別に田口が真ん中にいるとかじゃないわけよ。
夢物語、踊ってるんだけど、カメラが相当引かないと入らないぞ、みたいな位置なのね。でも、フツーに踊ってるわけよ。フツーにメドレーなわけよ。

最後は新しい少倶楽のエンディングテーマ曲で、かつんは全員「やや下手側」に集合。
賑やかな曲だから、わらわらやってればよし。
サビで6人固まってぴょんぴょん飛ぶような振り。肩組んで、そんで。

田口くんは、怪我した方の足をすこーし宙に浮かせて、片足ですこーしけんけんするみたいに、すこーしだけぴょんぴょんしてる。
すこーしだけね。

そんで、うれしそうでさ。みんな。

なんつーか。色々あるけど、少倶楽は、というか、NHKBSのあの枠は、枠としてある程度の良心を持ってやっていることには違いないのだろう、と。
あの枠もうかなり長いから、かなりの人がどこかの段階でお世話になるとゆー感じだけど、続くものにはそれなりの理由があるのだ、とも。


余談的な話をすれば、この時期けっこージコセキニン論にウチノメサレテいました。
司馬遼太郎が亡くなった時に宮崎駿が「今亡くなってよかった、これからひどくなる日本を見なくてよかった」と言ったとかゆー話にも、まぁまぁそんなこと言わないで、と思うタイプの人だったのですが、なんつーかそれは私が気付かなかっただけで、もうずっとひどくなっていたのかも、とか、私が気付かなかっただけで、全体主義の国に生きていたのかも、とか。
「そっかー」みたいな。
あぁ、これを「諦念」と呼ぶのだわ、とか。
30年生きてきて、初めて「未来」というものは幻でしかないのかもしれない、と思って、でも、

その日、NHKホールの小さなステージの上に、ちゃんと未来はあった。

未来、とは、予測をしたり思い描いたり諦念したりするものではなく。
未来とはつまりそこに立つ人の意志であり良心であり、意志であり良心でしかなく。
つまり、それは自分の中にあるものであり、そのことについて、人が何を言おうが、国がどう立ち行こうが、それとは別に存在しうるものである。

未来、とは。

…夢物語を見ながら、そのようなことを考えました。
話の脈絡がなくてスミマセン。。。

そしてタイトルに戻るわけです。
当事者は、常に「ここ」ではない場所にいる。
何を言おうが、何を言われようが、当事者は「ここ」にはおらず、その間にも時間を刻み、自分の足で立っている。

それこそが未来ではないか。
未来、とは。





ドライ・クリーニング / 2004.07.04



ばかばかしくも素敵な老舗アイドル誌、Myojoの中でも群を抜くばかばかしい連載に「甘いささやきくださぁ〜い」とゆーものがあります。
もうタイトルがばかです(笑)
コンセプトは「亀梨&赤西と誌上でメール交換」ということで、読者からの「メール」に、2名が「メール」で答えるという企画ページで、それでなんでタイトルがそれなんだ?さすがMyojo相変わらず飛ばしてんな、という話なわけなんです。

読者の「メール」はいろいろ。それに対する回答もいろいろ。
時々シリアス系の問題も有り。

曰く、「大好きな父と大好きな母が離婚するかもしれません。毎日ケンカばかりしているんです。」「どうすれば、仲直りしてくれますか?」「どうすればいいのでしょうか?」

答えて曰く「あれだよ、結局は離婚なんて今珍しくないし、別にそれはあえて重く取ることもないし、自分は自分で、親は親で、関係ないから、素直に生きよう」「重たく考えない方がいいと思う。お父さんとお母さんの問題だし、そこに割り込んで言うことでもないと思うんだ」

最初にこれを読んだ時、ちょっと「すげぇ!」と、思った。
離婚しちゃうと悲しいよね、とか、そんなのいやだよね、とか、そんなことゆってない。
このドライな空気はなんだ。

このドライさは回答してる当人達だけの問題でもない。つまり、Myojoが編集部としてそういう思考を持っており、回答としてこのドライな答えが掲載に値する、と考えているということだ。

この、ドライな空気をどうとるか。

* * * * *

突然ですが、日本には教育基本法ってーのがございます。
まぁ、憲法の次くらいの、「準・憲法」くらいの法律だと思いねぇ。
これが、多分変わるんです。小泉が首相をあと2年続ければその間に変わると思う。なんで変わるかというと、教育基本法を変えれば憲法を変える時の言い訳になるからです。
憲法変えるっていうと、やっぱ大騒ぎになるでしょう?みんな憲法は知ってるし。
でも、教育基本法は誰もシラナイから、シラナイうちに変えてしまおうという、まぁ、小泉率いる政府の作戦的にはそんな感じで。
「愛国心」でモメてるってどっかで見たことないかな、あれです、あれ。
教育基本法を変えて、その文面の中に「愛国心」の言葉を入れる入れないでモメてんです、今。

そーゆーことなんで、「愛国心(国を愛する心、と表現する)」はどーなるか流動的なんですが、ほぼ決定事項として、「家庭教育」に関する項目が教育基本法の中に入ることになってるんです。
曰く、
「家庭は教育の原点であり、すべての教育の出発点である。特に、豊かな情操や基本的な生活習慣、他人に対する思いやり、善悪の判断などの基本的倫理観、社会的なマナー、自制心や自立心を養う上で、家庭教育は重要な役割を担っている」
さらに
「それぞれの家庭(保護者)が子どもの教育に対する責任を自覚し、自らの役割について改めて認識を深めることがまず重要であるとの観点から、家庭(保護者)の果たすべき役割や責任について新たに規定することが適当と考える」

そんなの、あたりまえじゃん、と思うかもしれない。
この思考は確かに正しい。正しいから、あたりまえだと思うから、それが法律に入ってもなんらおかしくない、と考えがちになる。
でも、この「あたりまえ」のことが法律で規定されてしまうということはどういうことか。
どういうことに、なるのか。

…前述のばかばかしいMyojo、発行禁止処分になる可能性があります。
まさか!という感じかもしれませんが、可能性は「あります。」
発行禁止まではいかなくとも、広範囲な意味での「有害図書」の指定を受ける可能性が「あります。」

なぜならば。
あの回答内容では、家庭・家族を離婚という形で「壊す」ことを、奨励していると受け取られかねないからです。少なくとも、「離婚」の形を否定してはいないからです。

親の責任、と、離婚、という問題は別ものと認識してはもらえないと思います。
「家庭教育」という、一見ごくあたりまえの言葉が示しているものは、「個人よりも家族が大事だと、そして国が大事だと親は子どもに教えよ。子どもを個人主義の人間にするな」という命令です。「個人よりも家族が大事」だとする、道徳的に正しいとされているがゆえに、誰も反論できない、誰の反論も許さない「命令」です。

「離婚」は「家族」として政府が考える「両親・子ども2人」というモデルケースを壊します。ゆえに、「子ども」であっても、これを憂う必要がある。
親が離婚してしまうかもしれない。そんな「家族」が壊れる一大事に、それを憂うことをせずに
「自分は自分で、親は親で、関係ないから」
「重たく考えない方がいいと思う。お父さんとお母さんの問題だし」
と言ってしまう、そんな『個人主義』の考え方は、「法律に違反する」ことだと取られる「可能性がある」のです。

まさか!と思うっしょ。私もまさか!と思う。
でも、可能性が「ない」とは、現段階で言い切れない。
自分の住む国がそこまで馬鹿ではないと思いたい、でも、信用はできない。

愛国心を教育するといって、卒業式で歌う国歌の「歌声の大きさ」を「各学校ごとに大・中・小の3段階で評価」して、「小」だった学校の校長には教育委員会から注意がいく。
…まさか、と思うかもしれませんが、今実際にそういうことをやっている自治体があるんですよ。小学生とか中学生の歌声の大きさ判断して給料もらってる奴がいるわけなんですよ。すげーよ。自分の仕事に不安はないのかそれで。
ほんとに「まさか!」だけど、実際、マジでそーいうことをやってる市があるんだわよ。これはまだ全国的にではない。でも、全国的に波及するかもしれない。

そんなわけだから、そんなことやってる国ですから、そこまで馬鹿ではないと思いたいけど、ちょっと信用ならない。
「家庭教育についての細々としたことが法律で定められる」ことと、「Myojoの甘いささやきくださぁ〜い」をつなげて、Myojoを有害図書指定に「しない」とは、「言い切れない」。現段階では。

* * * * *

今の若者は(日本人は)権利ばかり主張して義務を負わないという。
「だから」権利ばかりの憲法を改正して、義務規定を増やすことが必要だという。

テレビ雑誌で桜井が「会社が泣くほどつらい。どうしたらいいか」という読者の質問に対し、「泣くほどつらいなら、やめてもいいんじゃないか」という旨の回答を出した。
これも、「今の若者は我慢が足りない。労働の義務を負わない」の一典型だと言うことが可能なのだ。

だが、そもそも憲法とは、宮台真司に曰く

「(1)憲法が国民から統治権力への命令で、
 (2)法律が統治権力から国民への命令で、
 (3)憲法が法律に優越するとは、国民からの命令の範囲内でのみ統治権力は国民に命令しうるということだ。」

つまり。
憲法とは、「わたくしという一個人が」「政府のトップである小泉純一郎に」「命令」しているものなわけである。
「いや、私憲法とかつくった覚えないし」という話なわけだが、まぁまぁ、憲法というものは、そういう存在として君臨してるものなんだ。

したがって、「権利ばかりで義務がない」というのは、憲法としての論点がズレている。ズレているのに、その思考ばかりがどんどん流布していく。

* * * * *

「重たく考えない方がいいと思う。お父さんとお母さんの問題だし」
「泣くほどつらい会社なら、辞めてもいいと思う」

どちらも典型的な「若者像」だ。
個人主義で、家族を大事にしていなくて、義務に鈍感で、忍耐力がなくて。

でも、このドライな感じは、なによりも、「今」生きていく上で必要なことではないのか。
なによりも、「今」救いになるのは、このドライな空気なのではないのか。

「関係ないから、素直に生きよう」

このドライな感じは、「今」を生きる人に、特に「今」を生きる若い子達に必要なものではないのか。
それが必要だと思うからこそ、ばかばかしくも老舗なアイドル誌はそのようなドライな回答を掲載し、それゆえに時代がかわっても、ばかばかしくも老舗なアイドル誌の看板を下ろさないでいられるのではないか?

「今」必要なものは、道徳でも美徳でもなければ家族神話でもない。
道徳や美徳や家族神話は、それ自体が「いいこと」には違いない。だから、誰の反論も許さない。
しかし、「今」必要なものは多分それらではない。
道徳でも美徳でも家族神話でもなく。一度きれいにそういうものをクリーニングして乾かして、そして空気をドライにすることだ。

ドライは、イケナイことだとされている。今は。
ドライは、今の若者の典型で、それはヨクナイことだとされている。今は。
それがイケナイことだ、ヨクナイことだと法律に書き込まれようとしている「今」、「これから」を生きる人たちはドライな空気を自然に身につけている。
そのドライな空気に「個人主義の弊害」だとレッテルを貼ることは簡単だ。
しかし、だからといって「昔この国で必要とされていたもの」を持ち出すことが、何かの解決になるとは思わない。

* * * * *

「今」が、そこまで馬鹿ではないと思いたい。でも、ちょっと信用ならない。
もしかしたら「これから」の方が、ずっと信用できるかもしれない。
なぜならば、ドライな空気を持つ人は、みんな未来にむかっているからだ。





「Take Me Out to the Ball Game」 / 2004.08.01



「週末ナイターに行くよ」
と、決定事項の電話が入ったのは大阪帰りの新幹線の中だった。

長女連合のAちゃんが飲み屋の親父から招待券をもらったとかで、…というかその飲み屋はつい先週店をたたんでしまったので元飲み屋の親父なのだが(そんなことはどうでもいい)、とにかく私の手元にマリンスタジアム(千葉だ千葉)のロッテ対西武戦のご招待券が渡ってきた。
現在合併で大騒ぎのパ・リーグ(パシフィックリーグ、という)である。

当日、眼科に行ったり美容院に行ったりしていて、球場についた時はすでに5回だった。
入口でチケットを切ってもらってる時、中から小倉優子の声が大音量で「いっしょにカウントダウンしてくださぁ〜い」などとゆっている。なんだなんだどーしたんだ、と思っていたら、それは花火のためのカウントダウンだった。
なんでも、夏の間の土日(かな?)マリンスタジアムのホームゲームでは、5回終了時に花火が上がるらしい。神宮でも昔同じようなことをやっていたと思うが今でもやってるんだろうか。ドームは天候関係なくていいけど、これができないやんね。

花火を見て、たこ焼きを買って唐揚げも買う。球場の売店は、いかにもバイトな若い女の子ではなく、この道○年なノリのおばちゃんが多い。注文聞くのもおつりも、早くて正確。並んでる人に次々と「はい次なに!」と呼びかける。呼びかけるっつーか、叫ぶ。即座に答えないと失格だ。

球場通路では夏休み企画で射的の屋台が出ていて、こどもたちが走り回っている。(ベタな表現だが本当に走り回っている。)もう野球なんだか縁日なんだかよくわからない。
かく言う我々も今の選手の名前をほとんど知らず、
「この西岡って私らの知ってる西岡じゃないよね…」
「高木って桐蔭の高木?あれは名前違くなかった?」
「昔大洋にさぁ、って今大洋じゃなくてなんだっけ…」
「…ホエールズ?」
「…ベイスターズ!!」(←思い出せてうれしい)
とか、そんな会話をしているようではもう「ダイエーハム」なみである。


ところで、ロッテの応援団はその規律正しさで表彰されるくらい、統率のとれた団体なのである。チームは全然強くもないし、そこまで地元に根付いているわけでもないし、パリーグだし、次の合併に名前出まくってるし、どちらかとゆーと散々な状態だが、応援団は表彰ものなのだ。
昔ながらの野球の応援団というより、サッカーのサポーターに近い動き方をする。
7回、ロッテ攻撃前。
その応援団が、手拍子で「合併反対!」とやり始めた。
一斉に「反対」のメッセージが書かれたプラカードとか垂れ幕とかが外野席を埋め尽くす。
「ガッペイハンタイ!」のコールはどこか「ニッポン・チャチャチャ」に似ている。似ているので、それだけ参加しやすいから、内野もみんな「ガッペイハンタイ!」で手拍子をする。
ロッテは実際合併話が新聞に出まくっているので(オーナーがどうしたいのかいまいち見えないとこがポイント)、これは結構真剣だ。最近では千葉の堂本知事まで出てきて、合併した場合の本拠地移転反対の話をしている。そりゃそうだ。もしロッテがどこかと合併してここを出て行ってしまったら、この球場の維持費をどうするねん、という話である。

この合併騒ぎ、相変わらず報道陣の前で飛ばした発言をして大人気のなべつねくんは、多分1リーグでも2リーグでもいんじゃないかな、という話がある。巨人としてはどっちでもいい、というのが正直なところではないか、と。
私的には西武の堤の方が曲者ではないかと思うんだがどうか。(どこに同意を求めているのか。)

まぁ、でもとりあえず今は客席の意向として「ガッペイハンタイ!」で手拍子である。
このままでいいとは誰も思っていないだろうが、「それ」だけが結論だと決め付けられればそりゃーみんな腹が立つ。
サッカーみたいに地域密着型にしないからこうなるんだ、という論もあるかもしれないが、サッカーと野球は元々の発祥の仕方が違うんだからそれはゆっても仕方ない。今後の方針として、そういうことも掲げた方がいいとは思う。というか、方向性としては段々そうなっていくんだろう。

この件で「近鉄を買う」と手を上げて時の人になったライブドアの社長がいるが、思うに、ジャニーズの社長は近鉄を買う気はなかったか。結構真面目な話として。
この夏、社長は今世紀最大の買い物として「WSS」を買ってしまったので、もうそんな金は残ってないと思うが、もし「WSS」が買えなかったら代わりに「プロ野球チーム」を買っていてもおかしくない。
社長の夢は「WSS」、社長の基本は「野球」である。

にのみやくんは、プロ野球選手になるのが「今」の夢である。
かめなしくんは、ドラフトにかかったら今すぐプロに行く、と公言している。
(誰かこの2人に「ドラフトにはかからねーよ」と基本的なツッコミをしておいてくれ。)

こっちの社長が近鉄買収に手をあげたとすれば(あげねーよ)、なべつねくんもそう無下にはできないと思うがどうかな。もちろん大女優森様を前面に立てて交渉するわけだよ。
そーすっと事務所が自前でプロ野球チームを持つわけだろ?
にのみやくんもかめなしくんも、ドラフトにかかるかもしれないじゃないか!(かかりません。)
…でも、ベンチの末席に入れてもらえるかもしれない。雑用係くらいなら。

試合は7回にロッテが5点取って追いついて、そのまま延長戦になった。
その頃には客席も半分くらいは帰ってしまい、残っている人達はややだらだらとしながら試合を眺め、「ここはおまえの家か?」くらいのくつろぎ方である。
私は涼しさを求めて通路に出、海から吹きまくる風に飛ばされそうになる。
よろよろしていると場内から歓声がおこり、慌てて戻る。
「ツーベースツーベース!」
おっちゃんが喜んでいる。こどもが飽きて椅子に寝ている。
キミたちは花火大会へでも行った方がいいんじゃないか?的若い娘2人連れが、熱狂的に喜んでいる。
「ロッテ、勝つと思う?」
「…いや?」
「…なんとなく、ライナーゲッツーとかくらいそうな気がしない?」


Take Me Out to the Ball Game.
私を野球につれてって。





愛と勇気とWSS/ 2004.12.09



あいとゆうきとうえすとさいど。

WSSを舞台で見たのは、演目別でいって4回目。
宝塚月組版、星組版、少年隊版、で、今回。
並べてみると自分はなんてヲタクなんでしょう、という感じでちょっといや…
やっぱり四季が上演しているうちに1回行っておくべきだったような。
(でも四季はダメだった。オペラ座の怪人もクレイジーフォーユーも肌にあわなかった)
(肌ってなんだよ)
(とにかくなんとなく肌にあわなかったんだ…)
(この段階ですでにまけいぬ気味である)

宝塚の月組版と星組版を見て思ったのは、WSSは演出というより、その解釈に随分幅があるんだとゆーこと。
以下は私見なのであまり参考にしないでいただけるとうれしーのですが。

月組版と星組版、一番違いが出たのはリフの作り方。
リフの「弟分」な面を打ち出すか、「現ジェット団のボス」な面を打ち出すか、で、すんごい違ってくる。

リフがトニーの弟分である面を強く出すと、トニーの「揺れ」みたいな部分が強調される。
マリアの頼みも断れない、でもリフの期待も裏切れない。
五重唱の場面で、リフに「派手にやろうぜ!」って言われて「オーライ」と答えながらもあきらかに逡巡してる。
で、リフ=弟分解釈だとアクションにもちょっと変化が出て、リフとアクションがジェット団のリーダーをめぐって対立してるようにも見えてくる。
トニーなんかいらねぇよ(冬)、のアクションと、ジェット団をつくったのは俺とトニーだ!のリフ。
アクションは確かに熱い男の設定だけど、この解釈だともうちょっとかしこい感じ。野心があって、時期リーダーをあきらかに狙っている。

対して、リフがそこまで弟分な面を前面に出さない場合は、トニーが「巻き込まれ型」になる。足を洗ってマリアに出会って変化してるはずのトニーが「巻き込まれる」感じ。
リフは「クール」でかしこくて、トニーのことも気にかけるし、ジェット団もまとめるリーダー。
この場合アクションは熱い男で、その分コドモっぽくて無鉄砲。力はあるけど見境がなくて、勝手にどっか走ってっちゃうのをリフが止めてる感じ。

ベルナルドはリフの違いではあまり変わらないけど、マリアの兄であり、プエルトリコの仲間達を「守っている」面を強く出すか、そうじゃなくて移民としての怒りとか憤りとかの方を強く出すか、そーいう違いがあった。

ベイビージョーン。いつもなにかにおびえているかよわい空気の場合と、一番コドモで何もわからないからこその妙なカラっとした明るさがある場合。
Aラブはどっちにしても基本的にカラっとした作り方。

マリアとアニタはあんまり変わらないかな。

解釈のどれが正しいっていうのはあたりまえだけどなくって、その時々の役者次第。
好き好きは見る人次第。

で、私の場合、基準が星組版絵麻緒ゆうのリフなんで、WSSのリフといえば刷り込みで「弟分」。
ぶんちゃん(私ではない)のリフはねぇ、弟すぎだった(爆)
当時、月組版が最初で、その次に星組版を見て、星組ズキの人達で
「ぶんちゃんはあーゆー解釈のリフでいいのか」
「あれで演出家的にオッケーなのか」
「いくらなんでも解釈が自己流すぎないか」
「そこはさすがぶんちゃんと言っておくべきではないか」
「ものすごい演歌っぽいWSSな気がする」
「元々トニーの弟分(実際トニー役の人の弟分のようなポジションだったので。関係性が現実とわりとリンクしてたの)だからむしろこっちの方がいいのでは」
とか話しつつ、みんなそれが好きでせっせと通ってました(通ってたんだ…。)

智'sリフはどうか。
今のところ、そこまで弟分としてはつくってない(と思う。)
確かにトニーを慕ってはいるけれど、どっちかっつーとかしこいクールな人系。地に足がついてるリフ、とゆー感じ。
でも、話全体的にはリフ=弟分の色が強くて演歌系。
それは多分、リフ=弟分というより、どっちかというと、今回はトニーが「お兄ちゃん」としてつくってあるから(だと思う。)

なんだろ、桜井トニーは私がこれまで見た中で一番ジェット団に愛着がある。
星組版はトニーとリフの師弟関係は強かったけど、ジェット団がどう、とゆー感じはそこまで強くはなかった。
でも桜井トニーはマリアが好き、でもリフが大事、ジェット団にはもちろん愛着がある、平和もけっこー好きだからできればシャークとも揉め事なくやっていきたい、ちなみにドクも好き、自分の今の生活もそんなに嫌いじゃないぜー…って、おまえがそんなんで大事なものを決められないからみんな死んじゃうんじゃー!…っていう(笑)

そーゆートニー像みたいなものがあって、そうかこーゆートニーの作り方があったのか、とか。
リフはわりとスタンダードな形にしてあると思うんだけど、トニーのお兄ちゃんの色が強いから話として演歌系になっている。ような気がする。

私の基準は演歌系なのでなんの問題もない(そんなことは聞いてない。)

リフ=弟分の演歌系WSSだと、トゥナイト五重唱で、『「オーライ」とリフに答えながら逡巡するトニー』とゆー感じに必然的になる。
これが好き。ちょー好き。ほんとに好き(わかったよ。)
なんだろ、トニーは「オーライ」って適当に答えられないわけだ。
マリアと約束してるからトニーは決闘を「止めに行く」決心をしている。でもリフはトニーが決闘の「手助けに来てくれる」と思ってる。トニーはリフの気持ちがわかってて、でも「オーライ」って嘘をついている、そーゆーことに対する逡巡。対して、「派手にやろうぜ!」ってはしゃいでて逡巡するトニーに気づいてないリフ。

五重唱、それぞれのいろんな迷いを抱き込んでぐわーっと盛り上がってく音がいい。

ベルナルドは、すごく、やさしい感じにつくってあるんだなーと思って。
マリアが大事、アニタも大事、チノも大事、仲間が大事、だから守りたくて「背伸びしてる」感じ。この「背伸び」感はやっぱり、実年齢が若いからこそ。
ベルナルドも大変なんだって、そーゆ感じ。

アクションは熱いけどかしこい系。決してリフの後輩なわけじゃないぞ、みたいな矜持がみえていい。
Aラブとベイビージョーンは「くっついてる感」がいい。
チノはおどおど感が、ちゃんとベルナルドの「弟分」な感じでいい。


宝塚版と違うなーと思うのは、少年隊の時もそうだったんだけど、アニタが乱暴される場面と、ラストシーン。
宝塚版の時は、向こうの演出家の他に、宝塚の座付きの演出家の人が1人ついたんですね。で、その人がポイントとしてあげていたのが上記のふたつのシーンなんですけども。
以下はその解釈

宝塚版、アニタの場面は、エニーボディスがその間中、客席から「見えるところで」泣いてるのね。見えるとこったって舞台のすみっこなんだけど、確かジュークボックスの隣あたりでしゃがみこんで泣いてるんだったと思う。
客席のほぼ98%近くを占める女性客向け対策というか、全体として嫌悪されるようなシーンなんだけど、泣いているエニーボディスを見ることで観客はそこに共感できる。少なくともそのことに対して傷ついているエニーボディスがいる、ということに共感してエニーボディスと一緒に泣ける、というか。

ラストシーンは、トニーの遺体を運ぶところで、シャークの子達は最初手伝わないわけよ。で、ジェットの子達が遺体をかつぎあげる。でも、落としかけるんだ。すると、それを見てあわててシャークの子達もかけよってくる。「思わず」という感じで走りよってきて、双方の目線が会う。一瞬沈黙があって、そして一緒にトニーをかつぎあげて歩いて行く(これが融和の象徴になる。)
それで、マリアはずっとそれを見ていて、みんながトニーの遺体に続いて引っ込んだ後、最後まで舞台にいて、ほんとの一番最後にマリアが「1人で立って、背筋を伸ばして歩いていく」、そして幕が閉まる。
これがマリアの自立の象徴で、救いのないようなラストでも観客はそのマリアが「1人で立って歩いていく」姿に共感できる。

この2つは青山劇場にはなかったので、やっぱりこれはあまりに宝塚的解釈なのかしら、それとも元々あったのが削ってあるのかしら、と。
でもトニーの遺体を落としかけたところにシャークのみなさんが飛んでくるのはステキだからやった方がいいと思うの(誰に言っておるのか。)


WSSって、歌と踊りのことが宣伝されるし、批評もそこに集中するけど、なんとゆーか、もっと解釈学っぽいものがあってもよろしいのではないかしら、と絵麻緒リフを見てからずっと思い続けていたのでこの機会に書いてみた。
上映権持ってる間に、いろんな人を使ってやってほしいなと思ってる。
その人その人で違う解釈のWSSができるはずで、再演のおもしろさってたぶんそーゆーところにあるんだと思うし。

WSSに技術も大事、でも愛と勇気も大事。

愛と勇気とWSS。
(チェリーパイは控えめに。)





疾風怒濤 / 2005.11.24



びっくりしたときー!
オリコンウィークリーチャートがやばそうってなった時に悔しくて泣けてしまったときー!

…まじびっくり。
理由はあれよ、月経前症候群いわゆるPMSってやつよ。PTAじゃないわよ、PMSよ。
もう歳とともに(……)これが猛烈にひどくなってマジ欝症状になるんだったら!ほんの1週間くらいの話だけど大変なんだったら!そろそろ薬もらい時かしら、ほんとそう思いますよえぇ女の子(もう子って歳じゃねぇ)って大変だわ…。

正直チャートはどうでもいいわけ。幸か不幸か嵐は連続記録とかそーゆーのないしさ。だから、嵐とその周りの人達が普通に食ってければいいわけよ。普通に食って、将来のための多少の貯蓄が出来て、普通に暮らせるだけのお金が入るくらいだったらそんでいいわけよ。まぁ外車一台くらいぽんと買えるくらいがいいとは思うけど(笑)、まぁ、嵐である、ということでそれなりに食ってけるくらいなら、それで。そうであれば、チャートはその程度でいいわけよ。
でも握手会とか言うじゃないの。
タイアップが豪華でもう一押しできる!っていう時にやるのかなーという気もしないでもない(ハダシの未来の時はコカコーラがついていた)、けど、まぁ、あれよね…(ハダシの未来の時は福山に負けそうだったのよ確か…)
なんとも言いようがなかったわ。
とりあえずCD買って、って、個人ができることって少ないわ、って。

でも嵐愛されてるとは思ったの。
理由なんかなんでもいいけど、でもとにかく握手会やる!って。だってこれは本人達が「ウィークリーやばそうだから握手会やりたーい!」つって、「はいそうですか」ってできるもんじゃないってことだけははっきりしてるじゃないの(笑)
『関わる全ての人たち』が、なんとかしようぜってちゃんと動いてくれてるということじゃないの。

なんとかしようぜって、とりあえずなんとかなって、ふーって溜息ついて、そしたら勝負事が実は大好きな桜井テレビだと面積三割増翔ちゃん(ミドルネーム長すぎ)からナイスタイミングすぎるメールが来ましたよ、ちょっとどーすんのなんなのもーやっぱ心配だったんじゃないのよやっぱ動揺するなって方が難しいじゃないのよこっちはJr.当時の癖が染み付いてんのよなんかヘマしたら吹っ飛ばされちゃうんじゃないかとか次ないんじゃないかとか今更そんなわけないってわかってるけどやっぱ急にこーいうことあると昔の記憶が甦ってドッキリするわけじゃないのよねぇやっぱそーよねそーよね泣かすんじゃねぇよって、

……結論を申し上げれば、ワタクシはこのような事態になるまで、自分がそんなに嵐を好きだとは正直気がつきませんでした(爆)

いや、最近バリボーはひたすら録画してますわよ、初日は東京体育館にも行ってしまいましたし、ウチにはとーぜん野ブタさんのCDもございますし、ズーミンも録画してますし、帝劇のチケットで頭悩ませてますし。

でも悔しくて泣いてんのよ!(←マジアホ)

大丈夫か自分(いろんな意味で。)(とりあえずPMS、これなんとかしよう…。)


なんかやっぱりわかってほしいとか思ってしまう。
私自身は、人にわかってもらおうとする努力とか結構放棄しちゃってるくせに、見ず知らずの(笑)嵐のことはわかってほしいと思ってしまうのね。

最初っから嵐に対して冷静な判断とか客観的な見方とかできるわけないんですけどー(だってファンだから)、でもなんてゆーの、ほら、その、真摯な感じよ、態度とかマナーとかやる気とかそういうんじゃない、真摯な感じをね、わかってほしいなーて。
本人達が仕事してる感じがよくわかるのはコンサートくらいだからあれだけど、でもそれだけ見てても、どんだけ真面目なのかってゆー話なわけですよ。真面目なんだよ嵐はー、いっぱい考えてくれるんだよー、嵐って組織を大事にできるんだよー、こういうふうに仕事ってできるんだって我が身を振り返って毎回反省するんだよー(うそ。反省はしない(笑)。でも、こういうふうに仕事できる環境を自分の周りにいつかつくりたい、それは決して実現不可能なことではないはずだ、とは嵐を見ていて思う。)

ぜーぜー。なんか久々にガツガツ書いたら疲れたわ;
結構これは何も考えないで書いてるわ。結構オトナになって、一度頭で咀嚼してから書くようになったのよおほほ、と思っていたのは幻想だったみたいだわ…。
なんかねぇ、やっぱ、がーっと書いたことで揚げ足とられんのもムカつくし(笑)、上からモノ言われるのもムカつくから、なるべくボロ出さないようにしてたのよねぇ多分ねー。かっこつけたいお年頃なのよね。

でも悔しくて泣いてるようじゃ根本的にダメだから自分(ほんとにダメだ。)

こんなことで自覚するのもあれだけど、ほんとにほんとに自分でびっくりしたわ。
リクツじゃないんだねぇ〜。
すっかり忘れてたけどTEMPESTって10月で7年目に突入したのよ。嵐が7年目ってことはここも7年目なのよ。おそろしいわ。なんだかんだ言いながら嵐のサイトだっつってぐずぐず続けてるのもやっぱり、リクツじゃないんだって話よね。

よくわかんないけどとりあえずこちらこそありがとうね、ということで御礼とか書いておこうと思うわ。
ありがとうね。そんで、これからもがんばろうね。

つうか、ワタシたち、ちょっと今回がんばったね(笑)

ありがとうね。そんで、がんばろうね。

いつかね、いつか。思い描く形のトップになれるようにね。




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