私的ジェンダー考


 「男の人にかわって」と、電話で言われたことがありますか?

 「まだ」ない。私は「まだ」ないです、それは。でも、この先電話を取るという業務が含まれる仕事をするのであれば、いつか言われるんじゃないかなと思っている一言、それが「男の人にかわって」。
 これってつまり、「上の人にかわって」と同義語なはずなのね。「店長出してよ!」とか、そういう系統。女の私が電話に出ていて「上の人にかわって」とゆわれて代わったとして、でもその上の人が女だったとしたら、またそこで一悶着あってもおかしくない。
 「上の人」とはすなわち「男の人」でなくてはならない。それはいったいどうしてだろう?
 …どうしてだろう?と考えたところで答えが出てくるわけではない。
 だって、それは「そういうもの」だから。それが良い・悪いは関係なく「そういうもの」なのだ。「今はもう違う」とか「そういうことは減ってきている」とか、そいういう問題でもない。つまりは「そういう空気がある」という現実がある、という話なのである。

 もう10年近く昔の話だが、私はその時就職活動をしていた。ちょうど「氷河期」と言われ始めて、それが定着したくらいの時期だ。「四年制女子大・文学部出身」の私のようなケースは「最も就職が難しいであろう」とどこからも言われていた。そして確かに、まったくもって就職は決まる気配をみせなかった。
 H社のセミナーに行ったのは、梅雨が終わる直前だった。
 出席者は全部で30人くらい。内、女の子は5人くらいだったかな。朝早くからのセミナーで、その日はすごい雨だった。
 セミナーが始まって、ざっと会社概要の説明があって、1時間も経過した頃、なんだか話の雲行きがあやしくなってきた。とにかく、「女性には大変な仕事」ということをやたらと連呼するようになったのだ。「夜遅くなる」「重いものを持つこともある」「体力勝負」等々。別にその会社は佐川急便とかではないのよちなみに(笑)。でも、そーいうことを連呼する。「現在社内の女性は事務担当が2人いるだけ」「今年は事務は採用しない」という最後通告のような言葉を聞いて少々キレた私は挙手して質問した。
 「つまり、女性にはムリな仕事である、ということでしょうか」
 その問いに対し、くどくどとまわりくどい、それまでに何百回と聞いた「女性には大変な仕事」という説明を繰り返された。その長い返答が終わった後、一番前に座っていた女の子がすっと挙手して質問した。…私より、ずっと単刀直入な質問だった。
 「では、今年は女性は採用しないということですか?」
 これには説明していた会社のおエラい方(当然男)が逆ギレした。
 「そうは言ってない!」
 …言ってる、っつーに(失笑。)
 別になんだっていいんだ。ただ、ほんとのこと言ってくれれば。「今年の採用は男性のみになっています」そう言ってくれれば。当時施行されたばかりの男女雇用機会均等法はいわゆるザル法で、守らなくったって罰則なんかなかったんだから。採用する気もない女子学生をポーズのためだけにセミナーに呼ばなくったってよかったのよ。
 それまでにも色々あった。電話がつながった途端ゆっくり切られたこと(多分女の声だったからだと思う、2回連続そうされたので)、担当直入に「女性は募集しません」と言われたこと、だけど別にどうも思わなかった。だって「そういうもの」だったから。
 でも、わざわざセミナーに呼んでまで懇切丁寧にまわりくどく「採用しません」と言われたのは初めてで、それにはさすがに辟易した。こっちの時間をなんだと思ってやがる!と思ったね。さすがに思った。だから、セミナーが終わった瞬間会場を飛び出した。飛び出して、一番最初のエレベーターに乗ったセミナー出席の学生は4人。私と、男の子が2人と、あと1人は「女性は採用しないということですか?」って単刀直入に聞いた例の女の子だった。
 小さな会場だったから、同じエレベーターに乗った男2人も、私達がケンカを売る質問をした女2人であることはわかったはずだ。…別になにを言ってほしかったわけじゃないけれど。
 しかし、その男2人はエレベーターの中で、その会社が次に予定している筆記試験を受験しても採用されないと(まわりくどく)通告された女2人がいる前で、「ここの会社の筆記試験のポイント」を語り合い始めたのである。
 別にいい。別にいいよ。でもなぁぁぁぁ。そういう会社で働きたいのか!あんたたちは!(答えは「つーか就職活動だし」であろう。そしてその答えはとっても正しいのだ。)
 なんだかなぁと思いつつエレベーターは下がってゆき、止まってドアが開いた瞬間、私じゃない女の子の方は颯爽とエレベーターを降りて、ほとんど小走りに歩き出した。素早かった。そして、小雨になった外を、傘をささないですたすたと歩いていった。
 …と書くとなんだか映画みたいだが、でも、本当にその子は傘をささなかったのだ。そして、その子が傘をささないで颯爽と歩いていったその気持ちが、その時の私には多少理解できるような気がしたのだ。

 理解できるような気がした、その理由はただひとつだけだ。
 それは、私が、女だったからだ。

 女、の話にまとわりつくのは、それは「でも優秀な女性は違う」という表現である。「女だから」というのは甘えにすぎず、優秀な女性はきちんと男性と同等にやっていけるではないか、という指摘である。
 私もそう思っていた。就職活動の時も、「でもきちんとやっていれば性別は関係ない。就職が決まらないのはアナタが女だからではなく、アナタの力が足りないから」だと、誰もが言った。世間がそう言っていた。私自身もそうだと思っていた。夏になっても私の就職は決まらなくて、私は、自分にはこんなにも力がないのかと本当に暗くなった。
 そういう時に、新聞の社説で福沢恵子さん(ジャーナリスト。私の尊敬する人心のベストテン第10位までに必ず入る人…)の一言に出会った。ちょっと長いんだが、以下引用。

* * * * *

 不況は女子学生間の「階級差」をより明確にした。どしゃぶり就職戦線とはいうものの、いわゆるブランド校では、複数の企業から内定を取りつける女子学生もいる。晴れて「就職エリート」となった彼女たちは、内定が取れない学生に対してはこんなことを言ったりもする。
「女でも実力があればなんとかなる。就職差別を騒ぎ立てるのは、実力のない人がすることじゃないの?」
確かに「実力」がなければお話にもならない。しかし、筆記試験の合格点が男女で大きな差があったり、女子にだけ並外れた語学力が求められたりという状況は、やはり差別以外の何物でもない。「私さえ優秀であれば」という考え方は、差別を超えるのではなく、差別の存在を「見ないようにしている」にすぎない。

* * * * *

 1995年7月27日付・読売新聞からの引用である。何故そんな日付まで細かく出てくるかというと、私がこれをスクラップして保存しているからである(笑)
 そのくらい。…スクラップして保存するくらい、インパクトのある文章だった。

 「ジェンダー」という言葉はむずかしい。しかし、私はこの文章に出会った時にこれが「ジェンダー」っていうものの考え方の基本なのではないかと思ったし、今でもそう思っている。
 差別の存在を見ないようするのではなく。みつけたいのは、それを超える方法なのかもしれない。それを超える方法を、探そうとしているのかもしれない。「ジェンダー」って言葉は、それを超える方法を探すための、考え方の広がりを示す言葉ではないのかな。

 多分、男にはこの感じは理解できないんじゃないかと思っている。
 だって、男は電話口で「男の人にかわって」とは言われない。
 だって、男は就職セミナーでまわりくどく「あなたは男なので採用しません」とは言われない。
 自分の努力ではどうにもならないことに対して、いきなり頭から否定されたりしないだろう。
 そういう人種(男、という「人種」)は、その種(女、という「人種」)であるがゆえに、いきなり反論できない、覆せない否定が大量に襲ってくるというえらいこっちゃな事態に陥ったことはないだろう。「あなたの家に子供が生まれたそうですので会社辞めてください」と、男は言われないのだ。「あなたはもういい歳になってますので会社辞めてください」と、男は言われないのだ。
 それを、そういう頭から否定されてしまうことを、その否定が反論を許さない否定であることを、その不条理な感じを「わかってくれ」と男に求めるのは、ちょっとムリなんじゃないかと思っている。だってさ、ムリだと思うんだよ、もう理屈の問題じゃないけど、だってムリだろ?(笑)。それを「わかって」もらうことがムズカシイがゆえに、男女平等という言葉はどっか浮ついて聞こえたりするんじゃねーかと思っているのだ私は。

 きっともう、男という人種が真剣にならないと、ジェンダーってものは前に進まないような気がしている。女が考えているだけでは、差別を超える方法は中々みつからない。
 だけど、男という人種はきっとジェンダーがわからない。
 何故なら、その男という人種は、それを意識したことがないからだ。
 それを意識したことがないから、一体何が「ジェンダー」なのか、それそのものが理解できないからだ。
 それを理解できないまま「男女平等がいいですね」と言われたところで、じゃぁ一体何が「平等」なのか、一体何が「差別」なのか、それが実感として体に入っていないんだから、それを超える方法をみつけるのは夢のまた夢に思えてくる。

 しかし、もしかしたらその感じをわかる男もいるかもしれない。
 わかる男が、もしかしたら、存在するかもしれない。

 …それがつまり嵐だとはちょっと言いすぎだろう。だろうと思う。でも。
 私は、あの人達の中に、あの時の私を見ることがある。

 「ジャニーズのコドモのアイドルだから」
 そんな理由で、希望や要望を一蹴されたことがないだろうか。あの人達は。
 そう考えるようになったのは、この冬のコンサートが終わってからだ。
 この冬は、スタッフさん達と仲間のようにできたのだという。ちゃんと話も聞いてもらって、打ち合わせもたくさんしてもらえたのだという。意見もたくさん取り入れてもらえたのだという。それは逆に言えば今まではそれをしてもらっていなかった、ということにはならないだろうか。程度の差こそあれ、今までは満足に「対等な」相手とは認められていなかったということじゃないだろうか。
 それはあたりまえ、の話だろうか。彼らがコドモだから?経験が少ないから?アイドルだから?……それって、「女だから」の一言で一蹴される、それとちょっと似てないか?本人の力ではどうしようもないところで、「○○だから」と除外され、頭から否定されてるってことじゃないのか?

 彼らは「ジャニーズだから」とレッテルを貼られながら生活をしている。「ジャニーズ」というのはイメージだ。イメージだから、その実体がどうであろうと意味を持たない。「ジャニーズだから」○○だ、××だ、と、その時点で決まってしまうことがたくさんある。その中でも嵐は駆け出しなわけで、そうするとそのイメージがよりいっそう強くなる。
 「ジャニーズだから」「アイドルだから」「コドモだから」そうやって一蹴されながら、それでもどうにかしようと手を伸ばしている。そこに。
 そこに、女はそれぞれの「自分」を見ている。……ような、気がする。

 少なくとも私はそんな気がしているが、でも、そう思う人の方が、多分、少数派なのかもしれない。わからない。少数派だと思われている、ような、気も、する。
 だって時々ものすごいズレを否応なく感じさせられることがある。

 嵐はアイドルとゆーカテゴリーに所属する人達であって、ファンとゆーのは、つまりはそれを見る女達、ということになる。それを見る女達が望んでいることは「近づきたい!」と「癒されたい!」、このふたつしかない…と、思われているようなところがあるでわないですか、なんとなく。嵐を使って何かを制作する側に、そういう意識が見え隠れすることがあるでわないですか。それが満足できりゃいいんだろう?って、そう居丈高に出られているような気がすることがあるのですよ時々。
 いや、確かにそういう部分はある。あるだろう。
 「近づきたい!」か、「癒されたい!」か。望むことはそれだけでしかない、部分が。

 でも、それは絶対違うんだ。
 近づきたいと癒されたいだけでいいなら、嵐がやってる仕事に関して「なんでこんなことさせるの!」なんて、そんな怒りの感情が出てくるわけがないのよ。「つっまんねーな」って笑ってりゃいいの、しょーもない仕事なんざ。でも笑えない。笑えないわよ、なんでこんなことさせられなきゃいけないのよって、逆に怒っちゃう。
 私という存在はこーいうものを見て満足できる人種だと思われているのか?と思うとそれも悲しいけど、でもやっぱり当人達が、こっちが愕然としてしまうような仕事をしていることの方が悲しいわ。

 …怒っちゃうのは、なんでだろう。悲しくなっちゃうのは、なんでだろう。
 その理由って、やっぱり、女はそこに「私」を見ているから、って。
 そんな理由が、あてはまるような気がするんだ。

 そこには「私」がいるから。貴方の中に「私」がいるから、だからしょーもない仕事させられてるのは悲しい。大事にしてもらえないのは悲しい。わかってもらえないのは悲しい。
 そういう中で、なんとかしようともがいてる、それに対して最大級の声援をあげたい。
 そんな感情、それは、ただの思い込みでしかないのだけれど。

 でも、少なくとも私はそこにあの時の私を見る。女だということが壁になって圧し掛かってきた、あの時私を見る。
 あの時の私と、今もきっと変わらない私の姿を見る。

 頭から否定されても、それでも手が伸ばせるか。
 伸ばそうとする気合があるか。
 その先の何かのための曲がらない信念があるか。
 何かが変わらないとしてもその先を求める意思があるか。
 そこで笑っていられるか。

 少なくとも私はそこに、貴方の中に私を見ている。
 貴方が手を伸ばそうとするなら、私もまだ伸ばせるかもしれないと思う。
 貴方にその気合が残っているなら、私の中にもまだ気合があるかもしれないと思う。
 貴方が目指す何かのために信念を持っているなら、私もそれを捨てたくないと思う。
 貴方の上にどれだけ否定が降ってきたとしても、貴方がその先をあきらめないのなら、私もまだあきらめちゃだめなんだと思う。
 貴方がそこで笑っているなら、私にもまだ笑う元気があるんだと思う。

 だからがんばってほしいと思う。
 負けないでほしいと思う。
 たとえここで何かが変わらなくても、でも変えようと踏ん張ることにきっと何かの意味がある。
 貴方を見ているとそう信じられる。信じてみてもいいような気がする。

 がんばって、とか。負けないで、とか。
 貴方に送る限りない声援は、きっと貴方の中にいる私にも送られているから。
 近づきたいだけじゃないの。癒されたいだけじゃないの。
 そんな簡単なもんじゃないのよ、貴方に送る声援は。

 がんばってくれないと困るの。
 負けられちゃったら、困るのよ。
 だって貴方の中には私がいるから。
 それがなにかの、力になっていくのだから。
 少なくとも、私は、そう、心から信じているのだから。



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